幸せを約束する聖書の言葉

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます

人生の重荷を担ぐ

 38年の間病気であった人の癒しについて話してみましょう。


 ベテスダという池のほとりに、38年間、病で苦しんでいる人がいました。


 その人をイエスは、『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい』と命じて癒してあげました。


 その時に、イエスはただ、起き上がりなさいとだけおっしゃたのではなく、自分の身を横たえる床を担ぐようにと言われたのです。今まで病に捉えられ、床なしには生活できなかった彼が、イエスに癒された時には、それを担ぐように言われたのです。


 ところで、その日は安息日で神を敬う日でした。当時の宗教家達は、聖書に書いていない規則を沢山作り上げて、聖なる安息日をこうしてはいけない。ああしてはいけないと定めて、窮屈なものにしていたのです。癒された男が、床を担いで歩いていると、早速とがめられてしまいました。


  聖書を見ると次のように記しています。


 「ユダヤ人たちは病気を癒していただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』しかし、その人はわたしを癒して下さった方が『床を担いで歩きなさい』と言われたのですと答えた。」ヨハネによる福音書5章10節、11節


 床を担ぐように言われたのはどうしてでしょう。


 それは、イエス・キリストに対する信仰というものは、過去からの逃亡でもなく、又、今まで自分が悩んできたところのものから逃げ出すのでなく、キリストの力によって、それを克服し、担うことを教えているのではないでしょうか。

 
 教会に来られて誤解するのは、神を信じるとシンデレラのように一夜にして変わるものと思いがちです。

 
 そうではなく、悩みに支配されず、悩みを克服し、更に悩みや困難を担う力強い人になることを教えているのです。

人間の愛と意志の限界


 小さい頃、友達と議論していて、自分の言っている事が間違いないと主張するために、「絶対に」という言葉をよく使ったものです。



 約束を絶対守るとか、絶対ウソをつかないとか言ったものです。それは、単なる強がりで、真実味がありません。大人になってくると現実的になってきて、そのような言い方をしなくなりますが、時として、自己過信から、ついつい強く言いたくなるものです。


 
 イエス・キリストの十二弟子の一人、ペテロもその一人でした。



 信じやすく、好き嫌いがはっきりしていて、多少自信が強すぎました。



 彼は、イエス・キリストに対する忠誠心は、誰にも負けないと思っていましたので、どんな危険な事や不利な立場に立っても、イエス・キリストを裏切ることはないと思っていましたし、キリストの為なら死んでもよいと思っていたのです。



 ところが、イエス・キリストが捕らえられて大祭司の庭に連れてこられた時、ペテロも同じく中庭にいて、周りの人から問われた時、三度も主イエスを知らないと言って否認しました。



 特に、三度目にキリストを否認した時、鶏が泣き、主イエスが振り返ってペテロを見つめたのです。



 ペテロは主イエスの優しい目に出会い、そして、前にペテロに語られた、主イエスの言葉を思い出して、外に出て激しく泣いたのでした。



 ペテロは主イエスを否認することを通して、自らの愛がいかに薄っぺらであり、又、自分の信念や意志力が厳しい現実の前には無力であるかを知らされたのでした。



 人間は自分が思っている以上に弱い存在だということをこれ程知らされたことはなかったでありましょう。と同時に、主イエスはすでにそのことをよくご承知の上でペテロの事を配慮し、彼のために祈られたのでした。



 裏切り、否認するペテロを全的に受け入れ、抱きとめて、キリストの愛の中で彼を真に力強い人間につくり変えつつありました。



 

幸せを約束する聖書の言葉 クリスマス選集

幸せを約束する聖書の言葉 クリスマス選集





 

四十年の訓練


 私共一人一人、有益な人生を送るために何らかの訓練を受けています。訓練は決して心地良いものではありません。むしろ苦しいものです。



 モーセという偉大な指導者が旧約聖書に記されています。イスラエル民族がエジプトで奴隷として苦しんでいる時、神の力によって、モーセたイスラエルの人々を解放したのです。



 そのモーセは神の不思議な導きによって、圧迫を加えているエジプトの王宮の中で育てられ、遂にはエジプトの王にさえなる立場にあったのです。しかし、彼の中に流れているイスラエル人の血と彼の心の中に植えつけられた信仰が、王になる約束を拒否させたのでした。



 彼は最初、同胞のイスラエル民族を自分の力で解放しようとしたのですが、挫折しました。それでミデアンの荒野に逃げて行ったのです。そこで四十年、羊飼いとして過ごしました。



 四十年間の荒野で羊を飼う仕事は、彼が王宮で学ぶものとは全く異なっていました。権力でもって人を指導し、命令するというやり方ではなく、羊と一緒になって生活しながら、羊が病気になれば看病し、聞き分けの無い羊であれば導き、弱々しい羊は良く面倒を見て、ともかく羊の身になってお世話をする訓練を受けたのでした。それは、今までの生活にない学びであり、彼の人生の価値観を変えるものでした。



 彼は大自然の中で羊飼いとして働く内に、いかに自分が無力なものであり、又、自分の性格が短気で傲慢であるかを悟ったのでした。



 モーセが人々の前に立ち指導できるようになったのは、この訓練を通してでした。



 聖書は「わが子よ、主の訓練を軽んじてはいけない」と述べています。どうか、あなたが苦しい日々を送っていらっしゃるのならば、主の訓練と思ってください。

終わりということ

 物事には、始めがあれば、必ず終わりというのがあります。


 一人一人の人生の終わり、世の終わり、また、今までの生き方に決別する終わり、この三つの終わりがあります。


 一人一人の人生の終わりとは、死です。死でもって私共の人生が終わるのです。


 聖書にあるように、人間の平均寿命は70歳から80歳です。人生の終わりを示すものは、だんだん年を取ることです。そして治る見込みのない病気にかかることです。人は何百年も生きていません。


、この世も終わりがあります。地球も年を取って古びてしまい、取り返しのつかない大きな病にかかると、それが終わりのしるしとなります。今日、様々な事件がそれを示しています。


 立花隆という評論家の方が、出版した本の中で、この地球号が危ないと述べています。地球というのは、それ自体で完全な仕組みになっていて、人間が生きていく上で必要なものがすべて完備しているそうです。ところがその地球の欲望を満たすために科学技術を用いることで、その結果環境が破壊され、地球の寿命に限界が来ているというのです。


 人間は人生の終わりと世の終わりに直面して解決があるのでしょうか。聖書は、それに対して、今までの生き方に終わりを告げ、キリストにある新しい生き方を教えることで答えています。


 聖書は次のように述べています。


 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく作られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリント人への手紙第二5章17節)

闇に光を

  聖書をお読みいたします。

 
 イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、シロアムの池に行って洗いなさいと言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰ってきた。(ヨハネによる福音書9章より)



 ユダヤでは、当時肉体的な不幸は親の罪か本人の罪の報いであるとの考えが支配していました。



 それで、肉体の病を負っている人は、病からくる苦痛ばかりでなく、神から見捨てられているという精神的な苦しみも負わされていました。



 今日も、何かうまくいかないことがあったり、不幸があると罰が当たったといいう考えに似ています。



 弟子たちがその目の不自由な人に目を留めて、イエス・キリストに目の見えない原因を聞きたくなったのはあながち好奇心ばかりでなく、世に多く見られる不幸の真の原因を知りたくなったからでしょう。



 しかし、イエス・キリストの答えは、弟子たちの考えをはるかに越える積極的な意義あるものでした。



 それは、過去の重荷や病からくる束縛を一挙に解放するところの答えでした。



 それは、間もなく目が開けられる前に、先ず心の闇に光がパッと差し込むのに似ていました。



 イエス・キリストに目が見えないのを癒されたばかりでなく、心の目も開かれ、全き明るさの中で人生を見ることができるようになりました。まさに神の業が現れたのです。

イエス・キリストの十字架の死(6)・・・永遠の命を得るため

 ところで、どうして、イエス・キリストは十字架の死の苦しみを受けてまでも、それを引き受けられたのでしょう。また、父なる神はそれを許されたのでしょう。



 ヨハネによる福音書3章16節に、



 「神はその独り子をお与えになったほどにこの世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」とあります。



 イエス・キリストが十字架で亡くなった時、その心臓が破れました。



 それをご覧になった、父なる神の心臓も破れたのです。



 私は、今まで、愛する長子を失った父親の方とお会いしてきました。それは、心に空洞ができたような有様でした。又、生きる力と望みが失われていました。人生の生きがいが無くなり、打撃を受けたのです。



 父なる神は、その心の中に打撃を受けたのです。それでも神は私たちを愛されたのです。



 「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された」とあります。



 ある解説では、原語で見ると、先ず「愛する」、「神」、「この世」となっています。



 一番最初に出てくる言葉、「愛する」が第一の強調点で、二番目の強調点は、最後にくるのだそうです。「この世」もです。



 神は「この世」を愛するゆえに、み子イエス・キリストを遣わし、十字架に架けられたのです。


 

幸せを約束する聖書の言葉 第3集

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幸せを約束する聖書の言葉 第5集

幸せを約束する聖書の言葉 第5集

イエス・キリストの十字架の死(5)・・・罪を引き受けたイエス

 「イエス・キリストは、『わたしもあなたを罪に定めない。』と言われました。


 そして、その女性を許され、帰らせたのです。


 この女性の罪は、罰せられるべきでした。


 しかし、許されたのです。


 どうしてでしょうか。


 それは、キリストが許されたからです。


 ではこの女性の裁かれる罪は、どこにいったのでしょう。


 それこそまさに、あの十字架上でキリストが石打ちの刑にあうように、否、それ以上に、その罪の刑を受けて死なれたのです。


 それゆえに彼女は、解放されたのです。


 彼女の罪とその結果である石打ちの刑にあたる死を、イエス・キリストがあの十字架で引き受けて、彼女を解放したのです。


 そのおかげで、彼女は全く別人のように変わりました。


 連れて来られた時は、哀れな姿でした。恐怖のどん底にありました。


 恥を一身に受けていました。


 その彼女が、イエス・キリストによって許されて帰っていきました。


 心には平安と喜び、希望と力をもって、今までの生活とは打って変わって、清められた人物として帰っていったのです。


 それは、イエス・キリストが彼女の身代わりとして死ぬことによって、彼女を解放した結果でした。


 辞書を開いてみると、「かわる」という言葉を引くと、三つの言葉が出てきます。

 
 身代わりの代る。交替の替わる、変化の変わるです。


 私たちが変わるとき、それはイエス・キリストの身代わりによるのです。


 姦通の罪を許された女性は、心に平安を得て帰って行ったのです。


 ※次回に続く

 

イエス・キリストの十字架の死(4)・・・「あなたを罪に定めない」

 人々を一体何から解放するための十字架の死なのか、



 それは、人間の「罪と死」の状態からの解放する為の、イエス・キリストの十字架の死でした。



 奴隷を見受けして、解放する。又、遊女となっている人を見受けして解放するには、それ相当のお金を支払わなければなりません。



 ある人にとって大きな出費を強いられたかもしれません。



 人間を“罪と死”の状態から解放するには、人間の代りに“罪と死”のために死んでくださるイエス・キリストの命の価が必要だったのです。



 その身代りとしてのイエス・キリストの死は、とても苦しい苦悩に満ちたものでした。



 そのことが次の聖句に述べられています。



 「14:32さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。 14:33そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、 14:34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。 14:35そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、 14:36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。



 イエス・キリストは十字架によって殺されなければなりませんでした。



 それは、人間の罪のため、罪の結果の死から、人間を救いだすためのものでした。



 そのことが一つの聖書の物語の中に記されています。



 イエス・キリストは、人々に愛を説き、許しを説いてきました。



 そのイエス・キリストに反対するファリサイ派の人々が、一計を案じて、キリストを落としいれようとしたのです。



 それは、この女性を許し見逃せば、律法の命じられていることに反することをしている理由で、キリストを石打ちにすることができます。



 反対に、この女性を石打ちにすることを認めれば、今まで説いてきた許しと愛の教えに反することになります。



 その板ばさみの中にイエス・キリストは立たせられたのです。



 主イエスは言われました。



 「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げかけなさい。」



 さばくことは必要です。罪は罪である。



 しかし、それができるのは、罪のない人、それは神以外いません。



 それを聞いたファリサイ派の人々は、年長者から去って行きました。



 罪を最終的に裁けるのは、人間でなく神です。



 神の子で、人の姿をとったイエス・キリストはこう言われました。



 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書8章10節、11節)



※次回に続く
 




 

イエス・キリストの十字架の死(3)・・・身代金としてささげる

 ある時に、イエス・キリストは、弟子たちにご自分の死を予告して、その死の意味を語られました。


 特に「多くの人の身代金(あがない)として、自分の命をささげる(与える)ためである」と述べています。


 「10:45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコによる福音書10章45節)


 あがないとは、


 名詞では、身代金、身請け、受け(買い)戻しです。 


 動詞では、…を(身代金を払って)受け戻す、身請けする、解放する。
 
       …に身代金を要求する。

       …の罪をあがなう。 
になります。


 すると、十字架の死は、迫害の死というより、人々を解放するための、身代金の死であるということになります。


 そして、身代金としての死が、いかに苦痛に満ちたものであるかということです。


イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネによる福音書19章30節)


 「成しとげられた」といいう言葉は、同じく十字架上で発せられましたが、それは十字架の死を通して、成し遂げられた出来事をあらわしています。


 十字架の死は成しとげられなければならない死である。そしてそれは、身代金として命をささげることだというのです。


 身代金というのは、奴隷に陥っている人を解放するために、支払うお金を指していました。


 イエス・キリストは、お金ではなく、ご自分の命を身代金代りにささげたのです。


 それは人々を解放するためでした。


 ※次回に続く

イエス・キリストの十字架の死(2)・・・神のみ心

 イエス・キリストを死に引き渡すということは、ユダが、指導者が、ピラトが十字架の死に引き渡すということ以上に、もっと信仰的、神学的、聖書的な、宗教的な意味があります。



 まず、十字架の死をご自分の使命として、イエス・キリストが受け入れているということです。


 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マルコによる福音書8章31節)


 この聖句の中で必ずという言葉があります。これは、必ずそうしなければならないという強い義務が含まれている言葉と言われています。



 人の子、即ち、キリストは必ず死ななければならないというのです。



 イエス・キリストの祈りの言葉があります。


 「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しい時が過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よあなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書14章35節、36節)



 ここでの祈りは、杯(さかずき)、即ち、苦難の死を取りのけてくださいと祈っています。


 しかし、み心なら適うことができるように、即ち、苦難の杯を飲めるようにということです。


 つまり、イエス・キリストは、十字架の死を神のみ心と受け取っているのです。


 あるところでは、「父は、わたしが自分の命を捨てるからわたしを愛してくださるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネによる福音書10章17節)と書いてあります。



 父なる神は、御子イエスが十字架で命を捨てるから愛して下さるというのです。


 考えようによって、父なる神が御子の十字架の死を喜んでいると受け取っていません。


 父なる神、子なるキリストにとっては、十字架の死を、どうしても避けることのできない出来事であったということです。


 そう考えていくと、


 ユダや、指導者や、ピラトが十字架に引き渡していく役割は背後に退いて、父なる神と、キリストにとっての十字架の死の意味が大きく前に出ています。


 「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」という意味は、十字架に架からずに、ユダや、指導者、ピラトの迫害から守ってくれなかったかという意味でなく、十字架の死そのものが、神から見捨てられるのは何故かということになります。


※次回に続く…

イエス・キリストの十字架の死

 イエス・キリストの死について考えたいと思います。



 パッションという映画がありますが、どうしてあのような苦しみを受けてイエス・キリストが死ななければならなかったかを考えて見たいと思います。



 いよいよ死に直面することになり、そのためにゲッセマネというところで、イエス・キリストは祈られました。



 その時のイエスの様子が現わされています。


 14:32さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、また悩みはじめて(もだえはじめて【新共同訳】)、彼らに言われた、 14:34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。 14:35そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、 14:36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。



 もだえはじめるとは、極度の精神的緊張をあらわしている言葉と言われます。



 ある人は「肉体的錯乱、あるいは、悲嘆、恥辱、失望などの精神的苦悩によって生じる混乱と不安、半狂乱の状態をあらわす時に使う言葉と言います。



 その言葉を用いてイエス・キリストの十字架に架かる前の祈りの姿を描いています。



 そして、その翌日、十字架に架けられるのです。



 その時に発した一つの言葉が聖句にでています。
 


 15:33昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。 15:34そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。  



 なぜお見捨てになったのですかとあります。



 それは「十字架の死に追いやって守ってくれなかったのですか」とも受け止められますが、しかし、イエスの言葉を聖書から読んでいくと、別の特別の意味があったことが分かります。



 それは、十字架刑に追いやられていくイエスの言葉です。



 イエス・キリストを追いやった人々、その一つにユダというイエスの弟子がでてきます。お金のためにとなっています。



 三つの共通の言葉があります。


 14:10ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。 14:11彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。



 当時の指導者たちは、


「15:9ピラトは彼らにむかって、「おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」と言った。 15:10それは、祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにわかっていたからである。」



 当時のユダヤを統治していたローマの総督ピラトについて、


 「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」マルコによる福音書15章15節(新共同訳) とあります。



 三つの共通の言葉があります。



「引き渡す」という動詞です。それは、死に引き渡すという意味です。



 ユダも、指導者も、ピラトもイエス・キリストを十字架の死に引き渡したのです。



 そして、それぞれの思いがあったのです。



※次回に続く

神のみ業があらわれるため・・・(二) イエス・キリストに出会う

 ヨハネによる福音書9章で、前半は、目の見えない人の癒しが中心に語られています。ところが、読み進んで行くと、物語の中心はイエス・キリストであることが分かります。そのイエス・キリストに対して、どのような態度をとるのかが問われてきます。



 目の見えない人の目を癒したイエス・キリストをメシヤ、救い主として、信じるかどうかが一番大きな問題となっているのです。



 生まれつき目の見えない人の目が癒され、ついに、霊の目が開き、イエス・キリストを信じて救われていくのです。ここにおいてはじめて、目の見えない人に対する神の恵みのみ業が明らかになるのです。



 もし、仮に、生まれつき目の見えない人が、ただ、目を癒して貰い、視力を回復して貰うというだけで、主イエスを信ぜず、無関心だとしたら、どのように思われるでしょうか。
恐らく、パリサイ人と同じく、罪に定められたことでしょう。



 本当に目の見えない人というのは、イエス・キリストを認めることが出来ず、信じないで、あくまでも、自分は正しいと言い張るパリサイ人たちでした。彼らこそ、まさしく罪の故に、目の見えない人だったのです。ですから、霊の目を開けて貰って、主イエスを認めることこそ如何に大きな神のみ業であるかを知ることができます。



 イエス・キリストを通して現された、恵みの現われは具体的にどうだったでしょうか。
まず、9章1節を見ると「イエスは、生まれつき目の見えない人を見かけられた」とあります。イエス・キリストの方から、私共に目を留めているのが分かります。



 6節には、「こう言ってから、イエスは地面につばをし、そのつばで、土をこねてその人の目にお塗りになった。」とあります。



 土をこねて目に塗るとは、自然療法の感じですが、しかし、癒し主は主イエス・キリストです。



 7節に『「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って、目が見えるようになって帰ってきた。』



 イエス・キリストのみ言葉を正しく聞いた人は、そのみ言葉に従います。私共も聖書を通して語られる神の声に従わなければなりません。現実の問題に直面して、私共の対応というのは、原因を探って、その因果関係を追及して、解決しようとします。確かに、そのような態度も必要かもしれません。でも、それだけでは、理解出来ない、いや、因果関係だけで図ることのできない問題は沢山あるのではないでしょうか。



 その時、私たちは、私たちに目を留めて、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人にあらわれるためである」とおっしゃったイエス・キリストに目を向ける必要があるのではないでしょうか。



 ある牧師が、キリスト者の目の見えない方々の集会に招かれてお話をしました。緊張して、その集会に出かけましたが、とても明るく皆さんに歓迎されたそうです。



 集会に参加している目の見えない方々が、次々と立ってヨハネによる福音書9章の話をしたそうです。講師である牧師が驚いたことには、目の見えない方々が一様にヨハネによる福音書9章の物語を自分の物語として語ったそうです。




 実際に目が開いたのではないけれど、私において神のみ業が起ったと証したのです。



 そこで、「むしろ肉の眼が開かれている者よりも、肉眼が閉ざされている人の方が、このみ言葉がよく分かってしまう幸いを知っているのではないか。私はそんなふうにさえ思いました」と牧師は述べています。




 この9章の終りの方で、先に目を癒された人にイエスが出会って、「あなたは人の子を信じるか」といわれると、「主よその方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」「あなたと話しているのがその人だ。」とイエスが言われると「主よ信じます」と告白します。




 癒された生まれつき目の見えなかった人は、あたかも、目が見えるようになることよりも、イエス・キリストに出会ったことに大きな衝撃を受けているように思います。




 イエス・キリストに出会うこと、それ自体が、神のみ業があらわされたことに他ならなかったのです。



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