幸せを約束する聖書の言葉

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます

イエス・キリストをご存知ですか

 

英国のレスリー・ウエザーヘッドが、ある時アメリカのマンハッタン地区の牧師会で話をすることになりました。


 ところが彼の乗った船は霧で大幅に遅れ、牧師たちは長時間待たされることになってしまいました。


 ようやく到着したとき、ウエザーヘッド博士はこう言ったと言われています。


 「皆さんはずいぶん長い時間お待ちになりましたが、私はたった一つの単純な質問をするために、長い船旅をやってきました。その質問というのは、『皆さんは、イエス・キリストをご存知ですか』というものです。」


 ジョン・ドレッシャーはこの言葉に対して、「一見すれば、これは牧師たちへの質問としては、奇妙なものと思われるかもしれない。しかし、もしもキリストのための牧会に携わろうとするならば、私はまさにここに全ての第一歩があるように思うのである」と述べています。

 
 エレミヤ書2章8節に、

 「祭司たちは、『主はどこにおられるのか』と言わず、律法を取り扱う者たちもわたしを知らず」


 その結果、エレミヤ書2章11節に

 「民は二つの悪を行ってしまった。生ける水の泉である主を見捨て、多くの水ためを、水をためることのできない壊れた水ためを自分たちのために掘ったのである。」と記されています。


 牧師はイエス・キリストを知っているであろうか。泉であるイエス・キリストから生命の水を汲み、その生命の水を分かち与えているのであろうかというのです。


 G.バイロン・デシコラー牧師はこのように述べています。


「私が牧師になって間もない頃、ある日の聖日礼拝が終わったとき、一人の信徒が私に次のように言いました。『バイロン先生、先生は先週、神様との時間をかなりお持ちになりましたね。』この言葉に私は体を震わせた。というのは確かにその人の指摘通り、その前の週はいつもより多くの時間を祈りと黙想に費やしたからである。
 当時の私は教会の人たちが、私が神との時間を多くもっているかどうかを見抜くなどとは思ってもみなかった。このようにもしも私の説教が神ととの交わりによって深いものになるというのであるならば、説教の貧しさは、私の祈りの生活の欠乏そのものを表しているのである。」


 「神様との時間をかなりお持ちになりましたね。」というのは、ここでは「多くの時間を祈りと黙想に費やした」とバイロン牧師は述べていますが、別の言葉で「神との交わり」、「祈り」とも言い換えています。

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