幸せを約束する聖書の言葉

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます

終わりについて

 聖書は「終わり」ということについて、特に強調しています。


 人生の終わり、この世の終わりについて語っています。始めがあれば、終わりがあるのです。


 ところで、終わりは終わりでしょうか。映画の画面に、The end という文字が出ます。終わりという意味ですが、それは別の意味もあるのです。「目的」という意味です。



 終わりは終わりではなく、そこには、目的があります。終わりがあって、新しくはじまる目的があるのです。



 世の終わり、地球の歴史の終わりに、新しい神の国である新天新地が開けるのです。人生の終わりには、神のみ国に住む希望があるのです。



 もう一つ大事な終わりの考えがあります。それは、人生において、古い過去を清算して、新しく生き直すということです。




 過去に終わりを告げ、新しく生きる、あるいは、日々過去に死んで、日々新しく生きるということです。人は、世の終わり、人生の終わりに向かって歩んでいます。しかし、終わりで終わるのではありません。そこには、新しい世界が待っているのです。



 それには、日々、毎日の生活で、新しく生きる経験が必要です。



 聖書は次のように述べています。
 


「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは、すぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」 コリント人への第二の手紙5章17節



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心を騒がせないがよい

 心の支えが失われた時、頼りにしていたものが、当てにならなくなったり、又、先が見えなくなると、私たちは、不安になるのではないでしょうか。

 
 イエスは、弟子たちが心を騒がせ、不安に思っているからこそ、「神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネによる福音書4章1節)と言われたのでした。

 
 弟子たちの心を騒がせ、不安にさせたのは、「あなたがたは、わたしの行く所に来ることはできない」(ヨハネによる福音書13章33節)とイエスが言われたことでした。


 そして、ヨハネによる福音書13章36節で、「シモン・ペテロが、イエスに言った。『主よ、どこへおいでになるのですか。』イエスは答えられた。『あなたは、わたしの行くところに、今ついて来ることはできない。しかし、あとになってからついて来ることになろう』」と言われました。


 更に、ペテロはヨハネによる福音書13章37節で、「主よ、なぜ今あなたについて行くことができないのですか」と言いました。


 また、ヨハネによる福音書14章5節で、「トマスはイエスに言った。『主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道は、わかるのでしょう。』」


 弟子たちは、周りが困難に見える中で、心から信愛しているイエスが、どこかへ行ってしまうということに不安を覚え、心を騒がせたのです。


 イエスが、これから行こうとしている道は、十字架の道でした。弟子たちはその道について行くことができませんでした。  


 ところが、主イエスが復活され、弟子たちにご自身を現されると、弟子たちの信仰もまた復活したのでした。


 復活の後、40日後にイエスは天にお帰りになりました。勿論弟子たちはついて行くことができません。またもや淋しい思いをしたでしょう。


 ところが、聖霊が弟子たちに注がれることで、弟子たちはイエスと一つになることができました。


 イエスが、弟子たちのついて来ることのできない十字架の道や、天にお帰りになる昇天の道は、実は、弟子たちや私たちが神様のところへ帰ることができる道を切り開くためでした。


 一見、イエスは弟子たちから離れて、弟子たちの来ることのできない所へ行ってしまったかに見えましたが、実は弟子たちや、私たちを引き寄せる為に、十字架と復活の道、天にお帰りになる道へと進んで行かれたのです。


 その不安を感じている弟子たちにイエスは約束しました。


 「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」(ヨハネによる福音書14章3節)


 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰ってくる」(ヨハネによる福音書14章18節)


 「もうしばらくしたら、もはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」(ヨハネによる福音書14章19節)


 再臨によって帰ってくる、聖霊によって帰ってくる。復活によって、あなたがたを生かす。
と聖句は述べています。


 今日、わたしたちは、主イエス・キリストの復活により、又、聖霊が与えられることで、主イエスがわたくしの所へ来られていることがわかります。


 それによって、わたしたちは、心を騒がせないで、平安を得るのです。


 そして更に主イエスの再臨によって、顔と顔を合わせて相見るのです。そのことを予告されて、主は弟子たちに不安をなくし、希望を与えてくださったのです。



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忍耐して祈る、信仰をもって祈る

 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかしその後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 ルカによる福音書18章1節から8節(新共同訳聖書)には、忍耐して祈るべきこと、しかも信仰をもって祈るべきことを教えています。


 信仰無くして祈ることは出来ません。


 祈ること無くして、信仰はありません。


 そのことを学ぶ必要があります。そして又、信仰の祈りに神は速やかに答えてくださいます。


 この物語の内容は、ひとりのやもめが、人を人とも思わない裁判官に絶えず訴えることで、遂に裁判官は彼女の訴えに耐えられず、やもめに有利になる裁判をするということです。その中に祈りに応える神様の姿があらわされています。


 又1節に、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」とあります。


 「気を落とさずに」という言葉は、口語訳では、「失望せずに」となっています。また、岩波書店刊行の訳では「倦んではならない」となっています。


 「失望すること」「気を落とすこと、すなわち落胆すること」「倦み(うみ)つかれてしまう」ことが祈りに対してあるというのです。


 神様が一向に祈りに答えて下さらないと失望してしまい、神様は私を見捨てたのかと思うのです。あるいは、自分の失敗や、不信仰、罪のために「気おちして」祈ることができないというのです。



 イザヤ書40章27節には、「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた。と」述べられています。


 「祈りは、神を変えるものではない。祈りは、わたしたちを神に一致させるものである。わたしたちが神に願っているときに、神はわたしたちの側に自己反省と、罪の悔い改めの必要があることを認められる場合もあろう。そのような時に、神はわたしたちに様々な試練と、屈辱をお与えになる。そして、聖霊がわたしたちを通してお働きになるのを妨げているものがなんであるかをお示しになる。」(キリストの実物教訓)E.Gホワイト


 祈りが直ぐ答えられないのにも目的があります。だから忍耐をもって絶えず祈ることを訴えているのです。


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忍 耐

「だから、兄弟たちよ。
主の来臨の時まで耐え忍びなさい。
見よ、農夫は、地の尊い実りを、
前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。
心を強くしていなさい。」 (ヤコブの手紙5章7,8節)



 同じヤコブの手紙5章7,8節を新共同訳で見てみましょう。


「兄弟たち、
主が来られるときまで忍耐しなさい。
農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。
あなたがたも忍耐しなさい。
心を固く保ちなさい。
主が来られる時が迫っているからです。」


 「耐え忍ぶ」が新共同訳では「忍耐」と訳されています。


 「忍耐」はやせ我慢ではありません。


 主に対する熱心な期待をあらわす言葉だと思います。農夫が秋の雨と春の雨を経て、遂に収穫する時のことを夢見て、農作業に精を出すのです。


 収穫に至ったときの喜びは言葉ではあらわせないでしょう。喜びを歌や踊りにあらわしたくなるほどです。


 主が来られるのを待つキリストを信じる人々は、今にも主ご自身がお出でになるのではないかと熱心に期待するのです。


 考えて見ますと、初代のクリスチャンが主の再臨を熱心に待ち望んでから、二千年近く経っています。


 彼らの期待と忍耐は無駄だったでしょうか。


 そうではありません。


 時が近いから、あるいは遅くなっているから熱心になったり、不熱心になったりするとなると、それはキリストを信じているのでなく、時間を信じていて、自己の打算から出たものでしょう。


 キリストの再臨を信じる者は、再臨が近いか遅いかでなく、今、再臨があるものとして、期待と忍耐をもって熱心に待つのです。


 信仰とはそういうものであり、その時はじめて私たちの信仰が、本物と言えるのではないでしょうか。

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福音を恥としない(3)・・・救いをもたらす神の力

 マルコによる福音書8章38節に、イエス・キリストの言葉があります。


「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう。」
 

 イエス・キリスト自身の中に、またその教えに対して、恥じることがあるというのです。


 しかし、パウロは「わたしは福音を恥じとしない」と16節で宣言します。


 恥と思わせるものが、例え人間的な弱さを含むとしても、その人間的な弱さを通して、神の力があらわされ、人々を救うというのです。


 ローマ人への手紙1章16節


 「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」


 ある人は、こう述べています。


 「パウロが誇るのは、ただキリストの恵みだけであるから、その誇りを誰も奪い去ることはできない。またキリストの力はパウロの弱さによってあらわれるので、パウロは自分の弱さを喜んで誇っていたのである。」


 コリント第二の手紙8章9節には、


 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」とあります。


 パウロは、キリストによって救われて、自分がいかなる者に変えられたか、深く分かっていたのでしょう。



 




 

福音を恥としない(2)・・・愚かにみえる

 ローマ人への手紙1章15節には、


 「そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。」(口語訳)


 新共同訳では、「是非…福音を告げ知らせたいのです」とパウロは言っています。


 また、ある人は、この同じ個所を「心が熱する」と訳しています。心が熱してきて、どうにかして、福音を伝えたいと、パウロは言うのです。


 パウロは、福音によって救われる、即ち、イエス・キリストに救われるということが、どういうことなのか深く分かっていたのでしょう。


 私はパウロのローマ人への手紙を読み始めたのは、自らの信仰と働きを省みる為でした。パウロのローマにいる人たちに対する熱い思いを考え、その同じ熱い思いをもちたいと思ったからです。


 ローマ人への手紙1章16節を見ると、


 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも信じる者すべてに、救いをもたらす神の力だからです」
とあります。


 突然、パウロは、「福音を恥としない」と言います。「福音を誇る」とは言っていません。


 福音を語ることに、パウロは恥が伴ったのでしょうか。


 私は、イエス・キリストを信じている、牧師であるということを告げなければならないことが何度もありました。その結果、周りの人の雰囲気が変わるのを見ると複雑な気持を持ちました。


 パウロは、ローマ帝国の首都に住んでいる人から見れば、ローマの植民地、ユダヤの一地方の出身者に過ぎない田舎者が、この大きな都会で、本当に伝道できるのかどうかと見られて、人間として、恥ずかしい思いをしたので、それを福音のため恥じないと言っているのでしょうか。


 パウロは、クリスチャンになる前は、迫害者として、恐れられていました。


 彼自身、罪人の頭と自分自身を呼んでいます。そのような過去の罪の故に恥じる心があったのでしょうか。


 パウロは弱さをもっていました。


 人々をつまづかせるような病、また人間的に見て優れた容姿をもっていたとは記されていません。


 あるところでは、パウロの話はつまらないとも言われています。


 そのような人間的な弱さを福音の故に恥としないと言ったのでしょうか。


 コリント人への第一の手紙1章18節を見ると「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが…」とパウロは述べています。


 21節には、「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」


 「宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おう」と考えたのです。


 信じない人々、知らない人々からすると、十字架の救いは愚かに見えるというのです。本質的に、イエス・キリストを恥じるような、人間的に見て愚かさがあるというのです。
 

※次回に続く

福音を恥としない

パウロはローマ人への手紙1章14節で、


 「わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。」と述べています。


 「果たすべき責任がある」という言葉の中に、神様の大きな憐れみとお恵みをみます。


 具体的には、パウロの劇的な回心と、異邦人への使徒にされたという、神様のお恵みと憐れみです。


 新改訳聖書を見ると、


 「私はギリシャ人にも、未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」となっています。


 新共同訳と、新改訳で訳でそう違いはありません。ただ一ヶ所「果たすべき責任」という箇所が、新改訳では、「返さなければならない負債」となっています。


 ここで言われている「責任」、「負債」は、普通の「借金を返す」意味ではありません。


 神様から受けた大きな恵みの故に、その恵みを一生懸命あらわす生き方を言います。


 パウロは教会を迫害する者でした。


 ある者を牢獄に送り、そこで死んだ者もいました。自分では、神に従ったつもりで、イエス・キリストの教会を迫害したのです。


 その最中にダマスコの郊外で、イエス・キリストに出会い、罪を許されて、伝道者に任命されたのです。それは一方的な神様のお恵みでした。


 その神様のお恵みを受けて、それを人々に伝えること。それが果たすべき「責任」であり、「負債」だったのです。


 戦後、戦地で生き残った人たちが、戦友の分まで生きよう、自分のこれからの生涯は、自分の人生でなく、亡くなった戦友の分を正しく生きることだ、という人の言葉をよく目にしたものです。


 これもまた、一つの負債をもった、責任をもった者の生き方です。


 私たちが困った時に、助けてもらった時、その恩に感じて、生きるのも責任と、ある意味で感謝の負債を感じるのに似ているかもしれません。


 パウロの責任、負債というのは、全ての人にイエス・キリストを伝えるということで、神様に対する感謝、責任、義務、負債をあらわしていたのです。


 そして、今、目前の目的は、ローマの人たちに福音を伝えることでした。


 ※次回に続く
 





ペテロの説教

 今日、子供たちが自殺したり、又親が子を殺し、子が親を殺すという悲惨な事件は、人間の本来の姿を失っていることを現しています。



 本来の人間の姿とは、神を愛し、人を愛し、神の戒めを守ることです。



 私たちも祈ること、み言葉を学ぶこと、賛美し、神を礼拝することで、いつも本来の姿に戻ることができるのです。



使徒言行録2章36節のペテロの説教の締めくくりに、



 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉があります。



 イエスは主であり、メシアである。



 即ち、神の子であるという宣言でした。



 その宣言を聞き終えた時、神のご計画とは言え、自分たちの手で十字架につけてしまった大きな罪を覚えて、人々は、



 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」とペテロに尋ねたのです。



 ペテロの答えは2章38節にあります。



 ペテロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」



 40節でもペテロは述べています。



 このほかにもいろいろ話しをして、力強く証をし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。



 悔い改めなさい。即ち本来の姿にもどりなさい。自分の判断に頼る道でなく、イエス・キリストによって神に至る道に立ちもどりなさいと訴えたのです。



ヨハネによる福音書14章6節で、イエス様は言われました。



 「イエスは言われた。
  わたしは道であり、真理であり
  命である。わたしを通らなければ、
  だれも父のみもとに行くことができない。」


 悔い改めとは、道であり、真理であり、命であるイエス・キリストを通して父なる神に至ることであるというのです。



 それこそが人間の原点であり、人間の本来のあるべき姿として、聖書は、私たちに伝えているのです。

 
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人の罪と、苦しみ、悲しみを荷なうバプテスマ

  イエス・キリストが、この世に来られたのは、人間に救いをもたらし、希望を与えるためでした。

 

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けられた」 (マルコによる福音書1:9)

  イエスが、バプテスマを受けに現れた時、人々は、イエスを特別な人と認め、こぞってメシア(救い主)として歓迎したとは記されていません。その姿は、多くの人が考えるメシア像とはかけ離れ、一般人と変わりなく、一平凡な三十代の青年として登場したのです。そして、ヨハネからバプテスマを受けたのです。



  神の御子であるイエスは、人間として生まれ、人間として成長し、生活をしました。

 
  その人間性には罪はありませんでした。イエスが、ヨハネよりバプテスマを受けたのは、罪を悔い改める為でなく、罪を持つ人間と共にある為、人間の罪と苦悩を荷う為にバプテスマを受けたのです。


  聖書は次のように述べています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとはおもわず、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」 (フィリピの信徒への手紙2:7,8)

  一人の牧師が、妻に先立たれ、弟も亡くなり、ある日、一人息子を失いました。息子の葬儀を自ら執り行い、一人牧師館で、悲しみの内に横たわっている時、ふと、手にした聖書の言葉に触れました。それは、「神はその独り子をお与えになった・・」(ヨハネによる福音書3:16)という聖句でした。


  牧師は、思わず立ち上がり、「神は人になられた、人になられた」と口の中で唱えました。


  すると、悲しみが、言い知れない神の喜びと希望に変えられました。それは、悲しみの中にいる牧師の悩みを知り、荷うキリストが共にいてくださることを、そして、その愛を強く体験したのです。


  イエス・キリストは、私達とともにいて、罪を赦し、悲しみを慰め、苦しみを和らげ、そして生きていく力を与えてくれます。


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イエスは、キリストである

 テサロニケは、現在ギリシャの第二の都市といわれる大きな町です。


 パウロが伝道した当時も、マケドニヤ地方の第一の都市でした。


 そのテサロニケにおいて、パウロは、旧約聖書を用いて、ユダヤ人にもギリシャ人にも、イエスはメシヤであり神の子であることを伝えたのです。


 反対があり、迫害もある中で福音を伝えました。


 使徒行伝17章1節から3節までを見ると、ユダヤ人の会堂で、聖書に基づいて論じ伝道したことが分かります。


 「一行は、アムピポリスとアポロニヤをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じ、キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを、説明もし論証もした。」(1節から3節)


 その結果4節にあるように、パウロの教えを受けて、信仰を持った人達のことが出ています。


 「ある人たちは納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシャ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった。」(4節)


 ところが5節から、ユダヤ人のねたみのために、迫害が始まります。そこで、信仰をもった兄弟たちはパウロとシラスを、夜の間にベレヤに送り出したのです。(10節)

 
 パウロは、先ずユダヤ人が、どの地方にもいて、会堂を建てて、そこで、神様を礼拝していましたから、そこへ行って伝道したのです。ユダヤ人は旧約聖書を神のみ言葉として信じていたので、旧約聖書に基づいて話しをしたのです。


 まだ新約聖書はできていませんでした。


 パウロが、まず、旧約聖書に基づいて論じたことは、「聖書に記されているメシヤがすでに来た、あらわれた」ということを話したのです。


 そして、そのメシヤは、イザヤ章53章にあるように苦難を受け、十字架の死を経験し、3日目に復活したことを論じたのです。


 その苦難のメシヤは、ナザレ出身でイエスという名を持つ人で、その人こそメシヤ、救い主、キリストですと証明したのでした。


 このパウロの論証の仕方は、イエスご自身のやり方と似ていました。


 ルカによる福音書24章には、、イエスの弟子が、イエスはメシヤであると期待をかけていたのですが、イエス様が十字架に架かって死んでしまい、復活を信じることができませんでしたから、失望しがっかりしていたのです。


 そこへ、復活されたイエスがご自身を現し、旧約聖書をもって、メシヤの苦難と復活を教えたのです。


 使徒行伝17章2節から3節に、


 「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえること、また、「わたしがあなたがたに伝えているイエスこそは、キリストであることを説明し、論証もした」とあります。


 パウロは次のように述べています。


 「兄弟たちよ、あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなた方の所にはいっていったことは、無駄ではなかった。それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは先にピリピで苦しめられはずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。」(テサロニケ第Ⅱの手紙2章1節、2節)


 パウロを苦しめたのは周囲のユダヤ人でした。そしてそれは、ねたみの心から出たものでした。


 使徒行伝17章5節には、


 「ところがユダヤ人たちは、それをねたんで、町をぶらついているならず者らを集めて暴動を起し、町を騒がせた。それからヤソンの家を襲い、ふたりを民衆の前にひっぱり出そうとしきりに捜した。」


 パウロは、聖書に基づいて、あのナザレ出身のイエスという人物こそが、メシヤであり、救い主、神の子であると伝えたのです。   
 そして、そのメシヤは苦難のメシヤであり、しかし復活し、天におられ、再臨する主であると伝えたのです。


 その伝えられたイエス・キリストを心から信じた時、人々は救われ、変えられたのです。


 テサロニケ第一の手紙1章6節から10節


 「そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。

 わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所はいって行ったか、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。」




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十字架のキリストを伝える・・・(3)死を克服する力

 当時、ギリシャ人から見ると、十字架の教えは愚かなものでした。


 ギリシャ人の考える神は、人間世界から遠く離れ、不動で、何も感ずることができないものと考えていました。


 神が嘆き、悲しみ、怒るということは、どんでもない考えでした。神は不動で、変わることがないから、神が人間となる…つまり、受肉といった考えは、ギリシャ人にしてみれば、考えただけで吐き気をもよおす思想でした。


 以上のようにみていくと、ユダヤ人、ギリシャ人がつまづいた理由、愚かであるということが分かるような気がします。


 ところがパウロは、この愚かでつまづきとなるイエス・キリストの十字架の死が、信じる者にとって、救いにあずかる神の力であると言っています。


 コリント人への第一の手紙1章23節でパウロは


 「十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人には、つまづかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも神の力、神の知恵たるキリストなのである。」
と述べています。


 この十字架のキリストは、彼にとって慰めであり(①)、復活のあらわれであり(②)、弱い時の力(③)でした。


  ①1:3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。 1:4神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。 1:5それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。 1:6わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。 1:7だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。 (コリント第二の手紙1:3−7)



  ②4:7しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 4:8わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 4:9迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 4:10いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。 4:11わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
(コリント第二の手紙4:7−11)



  ③ 12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 12:10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(コリント第二の手紙12章9節ー10)



 これはまさに十字架につけられたキリストが復活され、その力をあらわしたのです。そしてそれは私たちの体験です。


 それはまた、死を克服する力です。



 

十字架のキリストを伝える・・・(2)十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かである

 コリント第1の手紙1章18節を見ると、「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かである」とあります。


 また、21節には、「宣教の愚かさ」とあります。


 25節には、「神の愚かさ」、「神の弱さ」とでています。


 これらの言葉が何を意味するのでしょうか。


 そこにパウロと当時の人たち(学者)と違う新しい視点から解かれています。


 十字架のことばとは、23節にあるように、十字架につけられたキリストのことです。


 十字架につけられたキリストは、信じない人にとっては愚かであるというのです。


 愚かに思っている人たちは、具体的に誰かというと、信じないユダヤ人、異邦人全てとなります。


 23節の後半にでているユダヤ人には、つまづかせるもの、異邦人には愚かなものというのです。


 しかし、信じる私たちには神の力、救いとなるのです。


 どうしてイエスが十字架にかかった事は、ユダヤ人につまづかせるものなのでしょう。また、ギリシャ人にとって愚かなものなのでしょう。


 有名な神学者で牧師の先生が、若い頃、金沢で伝道していました。その教会の古い歳をとった信徒の方から、昔その地方の人々は極端にヤソを嫌い、教会の前を通る時は、鼻をつまんで駆け抜け、あるいはこんな歌を歌ってからかったそうです。「ヤソ教徒の弱虫、はりつけ拝んで涙を流す」と。


 “つまづきだ”“愚かだ”とパウロの時代は考えられていました。特にユダヤ人はつまづいていました。その原因はユダヤ人はしるしを請ったからです。(22節)


 メシヤの奇跡を求めていたのです。それがつまづきのもととなりました。


 エレン・ホワイトは「キリストの実物教訓」11頁から12頁の中で、


 「キリストの務めは、彼の時代の人々に理解されなかった。彼のこられた様子が、彼らの期待にそわなかったのである。
彼らの求めたのは奇跡であった。救い主のかわりに、奇跡を求めた。彼らにはキリストの福音はつまづきの石であった。彼らは、メシヤが偉大なわざを成し遂げて、ご自分がメシヤであることを証拠だて、地上の国々を打ち破ってメシヤ王国を建設するものと期待した。」とあります。


 バークレーは次のように言っています。


 「ユダヤ人には、十字架上で、その生涯を閉じた人間が、神に選ばれた者であるなどとは到底信じられぬことであった。彼らは、自分たちの律法をさし示した。そこには、はっきりこう書かれていた。
 『木にかけられた者は、神にのろわれた者である』(申命記21章23節)。
 ユダヤ人から見れば、十字架の事実は、イエスが神の子であることを証明するどころか、神の子でないことを決定的に証明するものであった。
 不思議に思われるかもしれないが、ユダヤ人はイザヤ書53章を目の前にしながら、苦難のメシアといったものを、夢想だにすることができなかったのだ。
 十字架はユダヤ人にとって、イエスを信じる信仰への越えがたい障害であったし、今もそうなのである。
 ユダヤ人はしるしを求めた。神の黄金時代が到来したとき、彼らは驚天動地の出来事を待望した。
 ところが、イエスの中に彼らが見たものは、柔和で心へりくだった者、大向こうをうならせるようなことを故意にさける者、人々の間にあって仕える者、そして十字架に生涯を閉じる者であった。このような者を神に選ばれた者と考えるのは、ユダヤ人にとっては到底不可能なことだったのである。」


 ※次回に続く