幸せを約束する聖書の言葉

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます

罪を除くには

 心に罪や悪を持っていると、なんとなく寝苦しく、心に平安がありません。他人との交わりの中でも、いつも明るい気持になれないものです。そのまま放っておくと、心は硬くなり鈍感になっていきます。


 
 教会の牧師館の隣に芝生を植えたことがあります。雑草が生えてくるかも知れないから取るようにと言われました。私は気をつけて、できるだけ雑草が小さいうちに取るようにしていたのです。ところがある時から怠けてしまって放っておいたところ、雑草が増え続け、取るのに大変になってしまったことがありました。罪というのも同じもので、早いうちに芽を摘んでおかないと、とんでもない罪の雑草が心の中に増えることになります。



 罪の始まりはちょっとしたことからです。誰でもするからやっても良いとか、こんな小さな事ぐらい構わないとか、一度ぐらいやっても良いじゃないかとか、まだ先が長いから、この程度の事ぐらいは何時でも止められると高をくくったりして、罪を犯します。



 ところで一旦罪を犯すと、罪は人を縛りつけ奴隷にします。一回が二回となり、三回、四回と遂に罪の常習者となるのです。



 しかし、私共は罪に振り回される必要はありません。聖書のヨハネ第一の手紙3章5節、6節には次のように書かれています。



 「あなたがたが知っているように、御子は罪をのぞくために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいる人は皆、罪を犯しません。」



 イエス・キリストを心に迎えるとき、キリストご自身が罪を取り除いてくださるのです。


救い主のしるし

 
クリスマスにちなんだ聖句を読んでみましょう。

天使は言った、「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシヤである。あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたのしるしである」。ルカによる福音書2章10節



  イエス・キリストがお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに告げた言葉です。その中で、特に救い主誕生のしるしとして、布に包まっている事と、飼い葉桶の中に寝かされている事、それに乳飲み子という事でした。救い主の誕生の目印としては、ごくありふれた粗末なものに見えました。救い主の誕生を祝うために集まった人達も、貧しい羊飼い達と、わざわざ遠くからやってきた外国人の博士達でした。天使が、わざわざ教えてくれたしるしですから、それなりの意味があるものと考えられます。


  もし、布に包まっていることや、飼い葉桶と指定しなければ、救い主を王宮や立派な家を訪ね回ったかもしれません。救い主がどこかでお生まれになったかを分かるのに、しるしは役に立ちました。それだけでなく、天使の告げたしるしは、救い主のお働きを示しているようにも考えられます。粗末な布に包まれ、家畜の使う飼い葉桶に寝かされているのは、救い主が、人々の生活の苦しみや、悲しみを負って下さるしるしでした。


  そして、イエス・キリストの誕生は「大きな喜びを告げる」ものでした。イエス・キリストに出会うことで、自分が神に愛されていること、過去の全ての失敗や過ち、そして罪が赦されていること、また、自分の存在が新たにされていることを知った喜びに溢れるものでした。


  私どもの心の重荷や生活の苦しみ、悲しみを負って下さるばかりでなく、喜びをもたらして下さるイエス様を心から感謝しましょう。



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「すばらしい答え」(4)・・・「祝福の山」(エレン・ホワイト著)より

 「『神はわたしを顧みてくださらない』という必要はない。


 道は悪く、坂は急であるかもしれない。


 右や左に落とし穴があるかもしれない。


 またわたしたちは、旅の労苦を耐えなければならないかもしれない。


 疲れた時も、休息を切望する時も、労苦を続けなければならないかもしれない。


 弱っている時にも、戦わねばならないこともあろう。


 失望に陥っても、なお希望を持たなければならない。


 しかし、キリストに導かれて、わたしたちは、必ず最後には、望む港に達することができるのである。


 キリストご自身が、わたしたちの先に悪路を進み行かれ、わたしたちの足のために道をなめらかにされた。」


 祝福の山174〜175頁

「すばらしい答え」(3)

 「『あなたはまだ死んでいません。命のある限り、みんなで助け合わなければなりません。あなたの残している力がどんなに僅かであっても、それは仲間全体のものです。

 
 最後の一滴の力を振り絞ってでも、あの女の子を運ぼうとしている我々を手助けして下さい。あなたが本当に息の絶えてしまう時まで、手助けしてください。』


 この危険極まりない旅行中に、三人の老人が三度、とても見込みがないという断念の言葉を漏らした。その度ごとにリーダー(指導者)は疲れた老人たちに、最後に残った一滴をふり絞ってでも、子供を運ぶ手助けをして欲しいと切に頼んだのでした。


 朝の光が射し染めたとき、一行は山を越え、国境線を抜けて、隣の国へ入っていった。


 一緒に出発した一群の難民は全員無事行動し、没落者はいなかった。


 例の若い母親の為に、子供を背負ってあげた老人たちは、新しい意欲と、新しい命を得たようであった。


 そして、誰もが新しく自由の世界に向って、期待に満ちて前進して行った。」


 ※次回「すばらしい答え」(4)に続きます・・・

「すばらしい答え」(2)


 「月の出ない夜、私は難民の方々を案内して、山を越え、スペイン領内に送り込む予定です。これは困難なことです。けれども神様は必ず私たちを助けてくださいます。」


 遂にその日の夜が来ました。


 山すそにある集合場所へ急ぎました。彼女がそこに着いた時には、仲間が待っていました。母親は出発前にすっかり疲れていました。


 男も女も老人も中年も、そして若者も案内人に導かれて、自由の地を目指して歩み続けました。


 母と子は仲間の全てに労わられ、若者と中年の男の二人が交代で子供を連れて行くと申し出ました。


 一行が山を登り始めて、高くなって激しさが増すにつれ、疲労を訴える者が出てきました。


 最年長で身体の弱い老人がうずくまって苦しさのあまり呻いて言いました。


 「わたしはもう進めません。わたしにかまわないで行ってください。ここで死なせてください。どうぞあなたがたは助かっていただきたい。」


 そう言って地面に倒れてしまいました。


 しかし、指導者は彼の上にかがみこみ、厳しく熱心に告げたのです。


 ※次回に続きます・・・


 

「すばらしい答え」(1)・・マーガレット・リー・ランベック


 マーガレット・リー・ランベックがホートン・ミアリン社から出版した著書、「すばらしい答え」の中にあるお話だそうです。



 事は、スペイン国境から遠くない、フランスの小さな町で起こったお話しです。


 その町には、大勢の難民が集まっていました。彼らはドイツのヒットラー率いるナチの手を逃れて、なんとかアメリカに行きたかったのです。


 それには国境を越え、お隣りのスペイン領内に入り、そこから船でアメリカへ脱出するのです。


 この難民の中に、若い母親と、四歳にも満たない女の子が混じっていました。


 もしドイツの秘密警察に見つかれば、母と子は収容所に投げ込まれ、殺されるでしょう。

 
 あと十数キロメートル歩けば国境に着き、自由の身になれるのです。しかし、自由を目前にしながらも、困難が立ちはだかっていました。それは、秘密警察の追及もありましたが、スペインの警備兵は、難民の通過を認めてくれないのです。


 そのような状況下で、若い母親は、アブラハム、イサク、ヤコブの神に救いを求めて祈りました。


 翌日、母親の部屋に極秘に訪れ、「私は地下組織(パルチザン)の案内人です」と言ったのです。


 「月の出ない夜、わたしは難民の方々を案内して山を越え、スペイン領内に送り込む予定です。これは困難なことです。けれども、神様は必ずわたしたちを助けてくださいます。」


 遂にその日の夜が来ました。母と子は山裾にある集合場所へ急ぎました。彼女がそこに着いたときには、仲間が待っていました。母親は、出発前にすっかり疲れていました。


 男も女も老人も中年も、そして若者も、案内人に導かれて自由の地を目指して歩み続けました。


 ※次回に続く
 

復活

  聖書をお読みいたしましょう。

するとこの若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。」
マルコによる福音書16章6節


 金曜日の午後にイエス・キリストは十字架にかけられて死にました。そして、ヨセフという人の真新しい墓に埋葬されたのです。


 土曜日は安息日で聖なる日でしたので、掟に従い休みの日でした。安息日が終わって、日曜日の朝早く、女性たちがイエス・キリストの体に塗るため、香料を持って墓へ行ったのです。


 驚いたことには、墓の入口の大きな石が転がされてあり、墓の中に入って見ると、真白な長い衣を着た若者が「イエスはよみがえって、ここにはおられない」と告げたのです。

 
 婦人たちは若者の出現にも驚いたのですが、イエス・キリストがよみがえって、そこに亡骸がないということの方が、もっと大きな恐れを感じたのです。


 婦人たちは、キリストの死に悲しみにくれながら、その体に香料を塗ることしか思い及ばなかったのですが、キリストのよみがえりは予め告げられていたのです。


 もし、キリストの復活がなく、死んだままであれば、キリストの十字架上の死は、単なる人間の死で、それは敗北の死でした。キリストのよみがえりがあってこそ、キリストの十字架の死が、人間の苦しみや悲しみを担い、罪の裁きの身代わりの死となるのです。


 パウロという人は、「もしキリストがよみがえられなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなる」と述べています。


 弟子たちや婦人たちは、よみがえられた主イエス・キリストに出会い、人間の罪や、それに伴う全ての悩みが解決されたのを知り、新たな信仰の道へと進んでいったのでした。

終末の生き方(5)・・・イエス・キリストの再臨を待ち望む

 ※前回より続きます・・・



 そのイエス・キリストの必要を示すために、この世で成功した一人の人の話をされました。


 ルカによる福音書12章16節ー21節


 「そこで一つの譬を語られた。ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。



 この成功した男の人は、尊敬に価する人でした。その才能といい、手腕といい、計画といい申し分なかったのです。



 ところが、その人に決定的に欠けていたのは、人生に終りがあるということを知りませんでした。



 そして、また、永遠が存在することも知らず、それを心に留めようともしなかったのです。



 恐らく、人生の終りのことや、永遠のことは、単なる抽象的な話、時に暇人のする荒唐無稽の話に思えたのでしょう。



「もっと大きい倉を建てよう」、「これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ」、「楽しめ」と思ったその時に、死が訪れると知った時の彼の気持はいかばかりだったでしょう。



 彼が亡くなって、まわりの人は、どう思ったでしょう。



 「惜しい人を亡くした」、「これからという時に残念だ」。



 家族の人はどう思ったでしょう。



 20節を見ると、この男の人を「神は『愚か者よ』と呼んでいます。



 この男の人は、自分の人生の中に、終りがあるということ、又永遠が存在することを計算に入れていなかったのです。



 もし、自分の人生に死があることを考えに入れ、それを越える永遠について、考えていたならば、その人の人生観は変わっていたでしょう。



 主イエス・キリストがあえて「だれがわたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言われたのは、私はまず、全てのことにおいてメシヤであり救い主であると宣言しています。それに人々が目覚めてほしいと切なる願いを込めて訴えています。



 私たちも悩みがあります。悩みに囚われて、主イエスご自身とその使命を忘れることがないでしょうか。



 主イエスが十字架に架かり復活し、再びおいでになることが、私の人生の中心となるよう信仰の目を開きたいと思います。

終末の生き方(4)・・・神を信じること

 前回より続く・・・



 「イエスは、この人に何が正しいかを告げることもおできになったろう。イエスは、その場合に何が正当かを知っておられた。」(キリストの実物教訓230頁)



 「救い主の地上における使命は終りに近づいていた。恵みの王国の建設にあたって、主がなすべきことを成し遂げる時は、わずか数ヶ月しか残っていなかった。それなのに、人間の貪欲は、一片の土地に関する争いのために、主をその働きからそらそうとした。しかしイエスは、その使命からそらされるべきではなかった。・・・


 キリストはこういう論争を解決することは、わたくしの仕事ではないと言われた。キリストは福音宣教という別の目的のため、すなわち永遠の実在に対して人々の目をさまさせるという目的のためにこられたのであった。」(キリストの実物教訓230頁)



 私たちは、主イエスが愛の方であり、悩みに解決をお与えになる方であることは知っています。



 しかし、財産相続を訴えた男のように、思うような答えは与えられずに、もっと福音を、主イエス・キリストを知るようにと言われています。



 宗教が人々の悩みに答えるということは、当然すぎる要求です。



 人々のニーズに答える宗教が、力ある宗教として色々な方法でそのニーズに答えようとしています。



 そのような人間の必要から出発している宗教に対して、そうではなく、神ご自身から、主イエス・キリストご自身から、人々に判ってほしいことがあります。



 神から出発した宗教です。



 主イエスは、「私は裁判官や、調停人ではなく、メシアであり、救い主だ」と宣言しています。



 そしてまず「わたしを信じることだ」と言われています。



 ここに全人類の生死がかかわっていることを宣言しています。



 ※次回に続く・・・

終末の生き方(3)・・イエスは救い主

 前回より続く・・・



 私たちは、生活の中で、何らかの悩みを持っています。



 この人の場合は、父親が死んで、遺産相続にあたり、兄弟から分けてもらおうと思い、主イエスから兄弟に話してほしいと頼んだのです。



 この男の人の訴えは、ただこの人の訴えに終わらず、私たちの日常の生活における神様にお願いする祈りが要約されているように思います。



 私たちは、悩みがあるとお祈りします。



 なかなか祈りは聞かれそうにありません。



 この男の人の悩みに、主は直接答えられませんでした。



 しかしとても大切な、決定的な答えをされたのです。



 それは、福音の答えでした。



 主ご自身が、その男の人に対する答えでした。



 否定的にみえる言葉の中に、ご自分がメシヤ(救い主)であることを宣言しているのです。



 12節、


 「イエスは、その人に言われた。だれがわたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」



 一見厳しい、否定的な言葉のようにみえます。しかし、それは、裁判官でもなければ、財産相続の調停人でもないとすれば、何でしょう。



 イエスはメシヤ、救い主であり、そのためにこの世に来られたことを宣言しているのです。


 ※次回に続きます。・・・



 



 



 

詩篇23篇 ・・・主は羊飼い・・・

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。


主は御名にふさわしく
  わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
  わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。


わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。


命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。」


新共同訳聖書より引用


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終末の生き方(2)・・・永遠なる神を信じる

 前回より続く・・・
 


 主のもとに連れ去られた人とは、どういう人か。



 それは、福音に生きる人のことです。そして、再臨の時まで、日常の働きをしていました。



 「12:13群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。 12:14彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。 12:15それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。 12:16そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。 12:17そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして 12:18言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。 12:19そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。 12:20すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。 12:21自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。(ルカによる福音書12章13節ー21節)



 天に召される人は、終末を知り、主にあって生きる人です。



 私たちは、いつか自分自身の人生の終わりがやってきます。



 また、人間の歴史の終わりがあります。



 その終わりを知り、永遠を考える時、永遠を生きるには、永遠なる神を信じなければなりません。



 そのことを、主イエス・キリストは、強く人々に知らせるために、この世に来られたのです。



 しかし、人は永遠に生きるよりも、目の前にある現実の生活の方が、この世で一番大切なものだと思っているのです。



 ルカによる福音書の12章12節には、「群衆の一人が言った。『先生、わたしも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」



 又、13節では「イエスはその人に言われた。『だれがわたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのか』」



 イエスの話を聞いていた人が、この人ならば、自分の生活の悩みを聞いてくれるに違いないと確信して、イエスに訴えたのです。


※次回に続く・・・