幸せを約束する聖書の言葉

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます

十字架のキリストを伝える・・・(1)

 私が牧師になって50年以上になりますが、その間、両親に対して充分なことができませんでした。


 
 しかし、神のお恵みで、母は90歳、あるいは父は100歳以上になるまで永らえました。


 
 私に神御自身が恵んでくださったように思います。一方で、私は今まで何を宣べ伝えてきたのか考えさせられました。


 
 パウロは「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言いましたが、私は、果たしてキリストを伝えてきただろうか省みたわけです。

 


 だいぶ前のことですが、新聞を見ていたら、「成功話なんか面白くない、実物見てとことん考える」という見出しが目につきました。



 元東大教授の安藤忠雄さんという人の記事です。



 略歴を見ると、高校卒業後、独学で建築を学ぶと書いてありました。



 日本建築学会賞を皮切りに国内外の数々の賞を受賞しています。



 ヨーロッパで最大級の美術館の設計が認められ、イタリアや米国でも、安藤教授の手による劇場や美術館が次々と竣工すると言われます。功績が認められて、米国建築家協会から世界トップ建築家に贈られる金メダルを授与されました。



 高校しか出ていない。しかも独学で建築家になった安藤さんの活躍の秘密は「考えること」という若い頃から常に人一倍、自分で考えてきた。又、そうせざるを得なかった。大学で建築を学ぶのが常識の世界で、大学には進学をせず、誰にも教えて貰えないかわりに、アルバイトで貯めたお金で欧米を旅し、著名な建築を自分の目で見てまわった。「実物を間近かに見ながら、なぜこうなんだ。どうしてこうなったんだととことん考えた」というのです。



 私は考えるというところに興味を持ちましたが、その考え方のユニークさというか、発想のユニークさを感じたのは次のところでした。



 「国際コンペ(設計の公募)では勝利の数の何倍もの敗北を味わってきた。だが、『負けても勉強になる』と負けを気にしない。」それどころかコンペでの負けぷっりを『連戦連敗』と題した本にまとめた、「人の成功物語なんか聞いても面白くない。人生うまくいかないから面白い」というところです。



 安藤さんの記事を読んで感じたのは、考えるということと、もう一つはその発想でした。ユニークな発想というか、考える力と、その考える視点、物の見方の独自性です。



 マルコによる福音書8章に、イエスと弟子たちがピリポ・カイザリヤの村々へ出かけ、その途中で弟子たちにイエスが質問をされた話が載っています。



 「人々は、私をだれというか」



 「それではあなたは、わたしをだれというか」



 ペテロが、「あなたこそキリストです」と答えると、ご自分の苦難について語られました。



 ここでイエスは信仰告白を求められましたが、メシヤの苦難について考えるよう示唆したのです。


 ※次回に続く

 



 

一人一人の人生を導く主


  様は、私たちの人生を導くお方です。


  私が、高校に入学して間もない頃、国語の教師が、芥川賞をとって間もない、「太陽の季節」という本の素晴らしさを、熱っぽく語ってくれました。


  当時、私は充分その本を読んだのでもなく、ただ教師の語るところから教えられたのです。


  後になって、その本や、その本に関する紹介の記事で、先生の話を、少し理解出来るようになったのですが、しかし、私は、何かしら言い知れぬ反発を、強く感じました。直感的に、この小説の世界が、これから歩む私の世界に、影を落とすと思った私は、国語の教師とは異なる世界を見て、動揺したのでした。それからの高校生活は、霧の中を歩いているような毎日でした。


旧約聖書、詩編23篇の中に、次のような麗しい言葉があります。

主は、わたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂を生き返らせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」 詩編23篇1節−3節


  この聖句を見ますと、神様がわたしたちを導いていることが分かります。


  ある夫婦が、息子を失い、何年間か、深い霧に閉ざされ、暗闇の中にいるようで、先が見えませんでした。


  息子の死を忘れる為に、仕事に没頭して、時間を過ごしていたのです。


  霧が少しずつ晴れて、再び美しい朝を見ることができるようになりました。神様は、悲しみの夫婦を導いておられたのです。


  高校を卒業しても、以前として先が見えない私の所へ、友人が来て聖書を示し、教会を紹介してくれました。霧が少しずつ晴れ、将来への希望が見えてきたのです。


  神様は、私ども一人一人の人生を、霧が晴れ、魂を甦らせる場所へ導いておられるのです。


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豊かに実を結ぶ

「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人 
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが来れば実を結び 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」
(詩編1篇2節、3節)。


 詩編1篇2節、3節は、わたしの心に響く聖句です。


神のみ言葉を求めていく時、主にある幸いを思います。様々なことがあるなかで、主にあるときそこには主のお恵み深い御心を感じます。そして、そこに信仰で理解できる主のお与えになる豊かな実りを見せられます。


 白水社から出ているゴルヴイッツアーの俘虜記を読みました。詩編1篇3節についてのゴルヴイッツアーの信仰の言葉が記されています。励まされました。


 以下に抜粋しましたのでご覧いただければ幸いです。詩篇1篇2節、3節にあるように、皆さまの上に、主からの豊かな実りが与えられますようにお祈りします



白水社、現代キリスト教思想叢書第9巻「ゴルヴイッツアー俘虜記より」
 「5月13日の聖句は、そこで不義なる私のこともいっているにちがいなかった。


『正しい人は、流れのほとりに植えられた木の、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところはみな栄える』(詩編1:3)。


 その後、ロシアへ輸送されることになり、歩哨がロシア人特有な悠々とした調子でいったところによると、私たちはもうけっして故国に帰ることはない。一生のあいだロシアの復興のために働かされるのだ、という。それも嘘とは思えなかった。−こうしてまったく実りのない年月が前途を待ち受けているように思われるときなって、この聖句が私の頭上の暗い夜空に暁の星のようにのぼってきた。暗澹たるとき、私は「実り」について語っている聖書の言葉を全部思い出してみた。そしてその言葉の救いの梯子の段として、暗い谷間から明るみへと登っていった。シベリアであろうとどこであろうと、真の「実り」がありありと見え、その「実り」を結ぶことはだれひとり妨げることはできないのだ。「もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:5)−直接法で「結ぶ」と断言しているのだ。―どんなよその力もこれを妨げることはできず、必ずそうなる、ということなのだ。たとえシベリアであっても、この生命が実を結ばず、意味のないものとなることはない。シベリアにも人間はいる。人間とともに任務がある。任務があれば結実があり、実を結べば意味がある。心はたとえ故国と愛するものたちを想って悲しむとも、絶望するいわれはない。たとえそれを失っても、人生そのものの意味がなくなることはありえない。すべてのことは、神の正しい「水豊かな川」に根を張っているかどうかによる。そしてその川は必ず私とともにあり、シベリアでも流れているだろう。その川が神だ。いまこんなにも強く私たちに語りかける神の言葉そのものの中にある。けっしてとまったり渇れたりしない、生きた水である。この水が私たちに食をあたえ、飲ませてくれるのだから、飢えも餓死も恐れるにたらない。こう考えると、その日々のも内的な心の落着きが生まれ、それが私を支え、畜生道におちないようにしてくれた。それは、自分のことだけを考えずに乏しいものを分け合い、これから先どれくらい持つかなど思わないですむ力を与えてくれた。餓死であっても、永遠の生にいたる道にほかならない。それからもいく度も餓死に直面しながら、この内的な落着きの不思議な力を感じたものだった。それは神に直接祈るときだった。一切れのパンを乞うのでもなく、ひたすらに御心ならばよろこんでこの身を奉げますという祈りだった。はじめは神の怒りと思われたことも、恵みあふれるものだった。5月14日の聖句に総括的な約束が語られているので、それがわかった。『あふれる憤りをもって、しばしわが顔をかくしたけれども、とこしえのいつくしみをもってあなたを憐れむ』(イザヤ54:8)。」
(白水社、現代キリスト教思想叢書256,257ページ、小塩節訳)。


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平和


  テレビや新聞の報道を見ていると、世も終りだという言葉が沸き起こってくることがあります。


  暗いニュースが相次いで伝えられてくると、私どもの前途が暗く見え、毎日の努力も何か空しいものに思えてきます。


  一方では、確かに世の中は、科学が発達して人間の力の素晴らしさを称えずにはおられない業績を上げています。そこから受ける恩恵は大きなものがあります。しかし、先ほどのように、世界各地から伝えられてくる、災害や民族紛争などの解決には、人間の無力さをいやと言うほど思い知らされます。科学が発達したとは言っても、自然の脅威の前には、時としてなす術を知りません。又、人間は知恵を誇っても、人間同士憎しみ合い、その結果、相手を殺してしまうという考えられないことをしてしまいます。人間の理性や知恵、知識が当てにならないように思えてきます。


 暗い事柄だけを見ると、絶望してしまいますが、そのような現実の中でも、私どもに、なお希望を持ち続ける何かがあるでしょうか。


  12月になると、クリスマスの季節がやってきます。二千年前、暗い夜に、人々も同じく悩んでいたに違いありません。しかし、現実の厳しさと、暗い生活の中で、なお希望を持ち続けている、少数の人々がいたのです。それは、救い主イエス・キリストを待っていた人々です。


  暗い夜が、突然輝いて、地を照らし、讃美の声が起りました。

 

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」
ルカによる福音書2章14節


  これは、天使を通して、神が地上におくられた平和のメッセージでした。平和を願う人々の祈りに応えるかのように、神のひとり子なるイエス・キリストをお与えになったのです。このイエス・キリストこそ人々の心を愛で満たし、又、全ての災いの中にあっても希望をお与えになることができるのです。



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フィリポの主イエスとの出会い

 原点とも呼ばれる出会いが、人それぞれあるのではないでしょうか。



 その出会いが、人間同士の出会いを越えて、神との出会いにつながるとき、そこには、言葉で現せない、人に対する神の測り知れないお恵みと愛を見ます。



 聖書の中には、様々な形で神様に出会い、そのみ声を聞いた人達がいます。



 ヨハネによる福音書1章43節から49節には、イエス・キリストに出会った人達が出てきます。

 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人でヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエル王です。」


 神との出会いは、神からの出会いです。



 フィリポに呼びかけられたのは、イエスの方からでした。また、フィリポがナタナエルに出会って、主イエスのもとへ連れて行ったとき、イエスは、すでにナタナエルを知っていて、ナタナエルに「いちじくの木の下にあなたがいるのを見た」と言われたのです。



 「いちじくの木の下にいるのを見た」とイエスに言われたとき、ナタナエルは衝撃を受けました。「先生、あなたは神の子です、イスラエルの王です」と叫んでしまったのでした。



 いちじくの木の下にで、ナタナエルはメシアの到来を祈っていたのです。


 
 その祈りの答えとして、語りかけたイエスご自身に、ナタナエルは驚き禁じえませんでした。



 バークレーは次のように解説しています。



 「ナタナエルを驚嘆させたのは、彼がいちじくの木の下にいるのを、イエスが見られたからではない。それは、イエスが彼の心の奥底にある思いを読みとられたという事実であった。そこで、彼は心の中で言った。「私の心の願いを理解する人がいるとは!私の心の奥底にある秘密の望みを、見抜いている人がいるとは!それを口に出して言おうとしたこともないのに・・・私の魂の、口に表せないうめきを表現し得る人がいるとは!この人は神の子、神の約束されたメシアに違いない。それ以外ではありえない」。



 フィリポは、イエス・キリストの呼びかけを通して、生ける神の呼びかけを聞きました。そして、彼の人生は変わったのです。


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十字架を負う

 田中信生先生のご本の中に、先生の教会員で幼稚園の先生の事が書かれています。教会に出席した始めの頃は、随分厚化粧をしていたそうです。後でわかったそうですが、どうもドーランを塗っていたらしいのです。顔にアザがあり、それを隠すためだったようです。


 彼女が教会に通い続けるうちに、自分の有るがままを感謝をもって受け入れ、以前のような厚化粧をしなくなったそうです。


 ある日のこと、彼女が電車に乗っていると一人のおばさんが前の席に座りました。このおばさんは彼女の顔を見て驚き、思わず「あらあ、かわいそうに」と言いました。そして聞いたそうです。「ちょっと悪いんだけど、おめえそのアザ、気になんねのか。」すると、彼女はにっこり笑って答えました。「これは私の宝なんです。」「へえ、宝か、それが。」「ええ、神様が私にくれた宝なの。」これを聞いて、このおばさんは、ますます驚いてしまいました。実はおばさんはその日、お嫁さんと喧嘩して、あまり腹が立ったものだから、目的もなく電車に乗っていたのでした。そして、この姉妹に出会ったのでした。おばさんは聞きました。「どうしたら、おめえのようになれんだ。」「これから教会って所へ行くんだけど、そこへ行くとなれるよ。」「へえ、それじゃ是非連れて行ってくれ」その日からこのおばさんも教会に来るようになったということです。


 聖書の中に十字架を背負うという言葉があります。今まで幼稚園の先生を支配していた彼女の顔のアザが、イエス様を信じることによって、心が変えられ、顔のアザを気にする心が解放され、逆にアザがあるままで生きる勇気と喜びと感謝を持つようになったのです。


 聖書に「あなたが召されたのは、このためです。というのはキリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと模範を残されたからです。」とあります。


イエス・キリストをご存知ですか

 

英国のレスリー・ウエザーヘッドが、ある時アメリカのマンハッタン地区の牧師会で話をすることになりました。


 ところが彼の乗った船は霧で大幅に遅れ、牧師たちは長時間待たされることになってしまいました。


 ようやく到着したとき、ウエザーヘッド博士はこう言ったと言われています。


 「皆さんはずいぶん長い時間お待ちになりましたが、私はたった一つの単純な質問をするために、長い船旅をやってきました。その質問というのは、『皆さんは、イエス・キリストをご存知ですか』というものです。」


 ジョン・ドレッシャーはこの言葉に対して、「一見すれば、これは牧師たちへの質問としては、奇妙なものと思われるかもしれない。しかし、もしもキリストのための牧会に携わろうとするならば、私はまさにここに全ての第一歩があるように思うのである」と述べています。

 
 エレミヤ書2章8節に、

 「祭司たちは、『主はどこにおられるのか』と言わず、律法を取り扱う者たちもわたしを知らず」


 その結果、エレミヤ書2章11節に

 「民は二つの悪を行ってしまった。生ける水の泉である主を見捨て、多くの水ためを、水をためることのできない壊れた水ためを自分たちのために掘ったのである。」と記されています。


 牧師はイエス・キリストを知っているであろうか。泉であるイエス・キリストから生命の水を汲み、その生命の水を分かち与えているのであろうかというのです。


 G.バイロン・デシコラー牧師はこのように述べています。


「私が牧師になって間もない頃、ある日の聖日礼拝が終わったとき、一人の信徒が私に次のように言いました。『バイロン先生、先生は先週、神様との時間をかなりお持ちになりましたね。』この言葉に私は体を震わせた。というのは確かにその人の指摘通り、その前の週はいつもより多くの時間を祈りと黙想に費やしたからである。
 当時の私は教会の人たちが、私が神との時間を多くもっているかどうかを見抜くなどとは思ってもみなかった。このようにもしも私の説教が神との交わりによって深いものになるというのであるならば、説教の貧しさは、私の祈りの生活の欠乏そのものを表しているのである。」


 「神様との時間をかなりお持ちになりましたね。」というのは、ここでは「多くの時間を祈りと黙想に費やした」とバイロン牧師は述べていますが、別の言葉で「神との交わり」、「祈り」とも言い換えています。

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天の霊的祝福

 新約聖書のエフェソ書を少しずつ学んでいます。


 エフェソ書1章3節には、神に対する賛美と感謝がでています。
  
 特に、エフェソ書の1章に記されている賛美の理由を教えられました。


 神は、キリストにあって「天の霊的祝福」でわたしたちを満たしてくださったと述べられています。


 そして、4節から14節までに、霊的祝福の具体的な出来事が次々と述べられています。


 賛美の土台となる祝福について、最初に出てくるのが、4節の「選び」です。


 新共同訳では、わかりにくいのですが、口語訳の方がはっきりしています。


 口語訳では「キリストにあってわたしたちを選び」となっているのです。


 「キリストにあってわたしたちを選び」とは、キリスト者は、だれでも例外なく選ばれているという事実です。神は「わたしたち」すべてを選んでくださったのです。


 「わたしたち」は神に選ばれているので、感謝と賛美が出てくるのです。


 今まで、このわたしが、選ばれているということに、それほど関心がありませんでした。その理由として、わたしが神様に選ばれることに値する人間ではないという漠然とした、気持ちがありました。


 きっと、選ばれている人は、素晴らしい人に違いない、または特別な体験をした人が持つべき確信だと思っていたのです。


 ところが、少しずつ、エフェソ書を学んでいくうちに、私の「選びに」関する考えが、浅はかなものであり、全然無知であったことを示され、神様の前に恥じたのです。


 「選び」とは、神様が一方的に私達を、選んでくださる御業であり、何の功績もなく取るに足りない罪人の私達を選んだということです。


 もう一つ大事なことがあります。


 神が、私達を「選ばれた」目的です。


 4節の「御自分の前で聖なる者、汚れのない者しようと」選ばれたのです。


 口語訳では、「みまえにきよく傷のない者となるように」と訳されています。


 神が、私達を「選ばれた」目的は、再臨の時に、「みまえに傷のない者」にするためです。神がなさるのです。


 神が、選ばれたのです。神が責任を持って選んでくださった私達ちを、ついには、聖なる者、汚れのない者として、御前に立たせてくださるというのです。


 イエス様にあって「選ばれた」私達は、現在も、目に見えない形ながら、神の御前に立つことを赦されていますが、究極には、再臨の時に、「きよく傷のない者として」立たせてくださるのです。神が、そうしてくださるのです。ですから、神様に感謝と賛美をささげるのです。


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終末の生き方(2)

 


 ルカによる福音書12章13節に、群衆の中のひとりが突飛な質問をイエスにしたのです。


 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言ったとあります。

 
 この訴えをした人は、家督を持った人、父親が死んで、その残された財産のことで悩んでいたと思われます。自分がもらうべき分が、少ないと感じていて、なんとかイエスに理解してもらって、兄弟を説得して欲しいと願ったのです。


 イエスのお答えは、その質問者に対する答えとしては、また、突飛な答えでした。


 皆さんでしたら、どのような答えを、この訴えた人に答えるでしょうか。


 14節に「イエスはその人に言われた。『だれがわたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのか』」


 イエスの答えを見ると、あたかもこの訴えを拒絶する意味合いが強いのです。


 わたしは、あなたの訴えを聞いて裁くためにこの世に来たのでない、また、調停役をするために存在するのではない。他の大きな使命のためにここに来ているのだ。ということを強く宣言しているように思われます。


 この「だれがわたしをあなたがたの裁判官や調停人にしたのか」という言葉は、訴えた人ばかりではなく、周りにいた人、また弟子たち、そして今日の私たちにも鋭く強い調子でご自分のことを宣言しているのを感じます。


この個所を読んで、イエスはメシヤとしておいでになった。


十字架におかかりになることを宣言しているのだ。そのことをまず何を差し置いても知るようにと言っておられるように思われます。


 あたかも、「わたしは、十字架にかかるためにこの世に来たのだ、あなたがたの財産争いや対人関係のごたごたを仲裁したりする為に来たのではない」と言っておられるように思われます。


 私たちが、宗教を持つ理由は、何か頼るものが欲しいからであり、神を信じるのは、困っている私を助けて欲しいと言う願いあるからです。


 おそらく、この訴えている男も自分の問題を解決する人を探していたのでしょう。


 私たちも、生活の中でさまざまな悩みに遭遇します。そして、すぐに解決がつけばいいのですが、そうとも限りません。何年も続く場合があります。


 そのために、何年も何年もお祈りを続ける場合もあるのです。


 聖句にあるように、私は、牧師として、遺産相続のことを相談されたことは、一回にとどまりません。私の身の回りでも経験します。現実は、厳しいものがあります。


 遺産相続だけが、人生の悩みではありません。病気のことや人間関係、さらにはこの世の悪や不正に悩まされることがあります。


 そのとき、神が、お祈りを聞いてくださって、すぐに答えを与えてくださればどんなにか助かるだろうかと言う思いにかられることは事実です。

 
 イエスは、この男の悩みと解決を知っていたと思われます。


 エレン・ホワイトは、「キリストの実物教訓」の230ページに、このように述べています。


 「イエスは、この人に何が正しいかを告げることもおできになったろう。イエスは、その場合に何が正当かを知っておられた」とあります。


 にもかかわらず、あのきいびしいとも思われる、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」というお言葉を語られたのでしょう。


 それに対してエレン・ホワイトは、先ほどの「キリストの実物教訓」の同じ個所で、次のようにその理由を述べています。


 「救い主の地上における使命は終わりに近づいていた。恵みの王国の建設にあたって、主がなすべきことを成し遂げる時は、わずか数ヶ月しか残っていなかった。それなのに、人間のどん欲は、一片の土地に関する争いのために、主をその働きからそらそうとした。しかし、イエスは、その使命からそらされるべきではなかった。・・・
 キリストは、こういう論争を解決することはわたしの仕事ではないと言われた。キリストは、福音宣教という別の目的のためすなわち永遠の実在に対して人々の目をさまさせるという目的のためにこられたのであった」(230ページ)。


 イエスが、男の訴えに対して拒絶とも受け取られる厳しい発言の背後には、人間の救いのために成し遂げねばならない使命がありました。また、その使命を理解して欲しい切なる願いがありました。


それは、また、遺産相続で、イエスに訴えた男にたいして、激しく考え方の転換を要求するものでした。自分中心にイエスを見る目から、イエス様の目から自分を判断する変化を同時に要求されたのです。それは、周りにいる人弟子たち、今日の私たちのも迫ってくる要求です。自己中心から神中心に転換せよと。


 死を意識した時に人は変わります。価値観が変わるのです。


 15節〜21節には、


 「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』それから、イエスはたとえを話された。『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがて言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい。こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と、しかし、神は、『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのもになるのか」と言われた。自分のためにも富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ』。」


「一同に」と言われていることから、訴えでた男性の具体的な答えでなく、普遍的な人間の抱える問題に対してイエスがお答えになったことが分かります。


 その問題というのは、「貪欲」とうことでした。


 私たちは、誰しも欲を持っています。「貪欲に知識を吸収する」ともいいます。


 問題は、どんなことにも「貪欲」に追求することが、価値観の第一になることが、問題になるのではないでしょうか。


 貪欲に追求する人たちの行動力や判断力、知恵を賞讃します。いわゆるこの世の成功者です。


 しかし、「貪欲」に追求したことが、この世限りであれば、その人生を送った人に『愚か者よ』と聖書は言うのです。


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終末の生き方(1)

 雷(かみなり)が鳴り、近くに落ちました。



 雷の音を聞いてマタイによる福音書の聖句を思い出しました。



 「稲妻が東から西へひらめきわたるように、人の子も来るからである。」(マタイによる福音書24章27節)



 出エジプト記19章10節から19節には次のようにあります。



 「三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。


 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。


 シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。


 ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。」



 雷が盛んに鳴り、落雷で命を失った人が出たとニュースに出ていました。



 雷の音を聞いていると、神が現れるのを感じます。それは再臨です。



 マタイによる福音書24章40節、41節にイエス・キリストの再臨のことが出ています。



 39節後半に興味深い聖句が出ています。



 「・・・人の子が来る場合もこのようである。その時、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼(うす)をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」



 あるコメンタリーを読んでいたら、連れて行かれる人は、再臨の時に、主によって救われ、呼び集められる人です。


 残される人は、そうではない。



 一見して、二人の男は働き、二人の女は臼(うす)を引いている。



 違いは何でしょう。



 それは、連れて行かれた人は、イエス・キリストを心から信じて、福音に生きる人のことです。



 「12:13群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。 12:14彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。 12:15それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。 12:16そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。 12:17そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして 12:18言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。 12:19そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。 12:20すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。 12:21自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。(ルカによる福音書12章13節ー21節)



 イエス・キリストは福音に生きることをすすめているのです。


 
 また、終末を知ること、それによって永遠に生きる福音を信じることをすすめています。



 ※次回に続く・・・



 



 



 

ペテロの改心・・・(3) 敵意という隔ての壁を取り壊し

 エフェソ人の信徒への手紙2:14〜18(新共同訳)


 「実に、キリストは、わたしたちの平和であります。


 二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。


 こうしてキリストは双方をご自分において一人の新しい人を造り上げて平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によて敵意を滅ぼされました。


 キリストはおいでになり、遠く離れている人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。


 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて御父に近づくことができるのです。」



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ペテロの改心・・・(2)

 ペテロが偏見や差別をとり除くのに神様がお見せになった幻は、「清くないもの、汚れたものを屠って食べなさい」ということでした。


 この幻が異邦人、即ちユダヤ人以外の人を清くない、汚れたものと思ってはいけないということをペテロに示していたのでした。


 外国人は、汚れたもの、清くないもの、だから交際しないと宗教的に決められていました。


 28節、29節にそのように書かれています。


28ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。


29お招きにあずかった時、少しもためらわずに参ったのは、そのためなのです。そこで伺いますが、どういうわけで、わたしを招いてくださったのですか」。


 ところで神様はペテロに幻を見せた後で、それでも尚躊躇しているペテロに神様はみ霊を通して仰せられたのです。


 20節に「さあ立って下に降り、ためらわないで彼らと一緒に出かけるが良い。わたしが彼らをよこしたのである」と。


 ここで「ためらわないで」とあります。言葉は他に「疑わないで、恐れないで」とも訳せますが、「区別しないで、差別しないで」という意味もあります。


 神様は、み霊を通してペテロに「汚れているとか、清くないとか」差別しないで、出かけるよう命じたのです。



 そこで早速ペテロは説教します。


 イエス・キリストの十字架の死 (39節後半)


 復活(40節)


 イエス・キリストの支配と裁き(42節)


 許し(43節)



34そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、

35神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。

36あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。

37それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。

38神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。

39わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。

40しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、

41全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。

42それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。

43預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。


 その話が終らない内に、聖霊が降り、そこに話を聞いていた異邦人たちも、まだ洗礼を受けていないのに、聖霊の賜物をもらったのです。


 そのことはユダヤ人も異邦人も一つであることをあらわすしるしだったのです。


 同じ一つの聖霊を分け隔てなくいただいたのです。




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