幸せを約束する聖書の言葉

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます

人の罪と、苦しみ、悲しみを荷なうバプテスマ

  イエス・キリストが、この世に来られたのは、人間に救いをもたらし、希望を与えるためでした。

 

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けられた」 (マルコによる福音書1:9)

  イエスが、バプテスマを受けに現れた時、人々は、イエスを特別な人と認め、こぞってメシア(救い主)として歓迎したとは記されていません。その姿は、多くの人が考えるメシア像とはかけ離れ、一般人と変わりなく、一平凡な三十代の青年として登場したのです。そして、ヨハネからバプテスマを受けたのです。



  神の御子であるイエスは、人間として生まれ、人間として成長し、生活をしました。

 
  その人間性には罪はありませんでした。イエスが、ヨハネよりバプテスマを受けたのは、罪を悔い改める為でなく、罪を持つ人間と共にある為、人間の罪と苦悩を荷う為にバプテスマを受けたのです。


  聖書は次のように述べています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとはおもわず、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」 (フィリピの信徒への手紙2:7,8)

  一人の牧師が、妻に先立たれ、弟も亡くなり、ある日、一人息子を失いました。息子の葬儀を自ら執り行い、一人牧師館で、悲しみの内に横たわっている時、ふと、手にした聖書の言葉に触れました。それは、「神はその独り子をお与えになった・・」(ヨハネによる福音書3:16)という聖句でした。


  牧師は、思わず立ち上がり、「神は人になられた、人になられた」と口の中で唱えました。


  すると、悲しみが、言い知れない神の喜びと希望に変えられました。それは、悲しみの中にいる牧師の悩みを知り、荷うキリストが共にいてくださることを、そして、その愛を強く体験したのです。


  イエス・キリストは、私達とともにいて、罪を赦し、悲しみを慰め、苦しみを和らげ、そして生きていく力を与えてくれます。


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