幸せを約束する聖書の言葉

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます

生かされている

 四季折々の移り変わりの中で、ハッキリと自分が生かされているのだと、自然界を通して、実感する時があります。



 教会の牧師には、何年かすると、転勤がやってきます。三月の終りから、四月の初めにかけて、新しい教会に赴任するのです。



 春の訪れを伴う新しい生活は、春の季節を、特に花の咲き始める季節を意識せずにはおれません。



 若い頃、妻と二人で小さなトラックに、あるだけの荷物を載せて、新しい教会に着任した時、まだ花冷えの中で、庭の沈丁花(ちんちょうげ)の香りが漂っていたのを、昨日のように思い出されます。



 辻邦生という作家の方の文章を読んで、深い感銘を受けたことがありました。



 大学を卒業した年の春に、急性肝炎で危うく死に掛けた経験をし、もう駄目だというところまでいって、奇跡的に熱が下がり、一ヶ月ほどして退院したそうです。



 退院して、家に帰る時の事を次のように書いています。



 「その当時、東大前に住んでいたので、退院の日、病院から大学構内を歩いて家に帰った。その途中、丁度五月の晴れた日で、図書館前の樟(くすのき)の大木の新緑が、きらきら輝いていた。私は思わず息を呑んだ。これほど美しいものを見たことがないと思った。それは、ブラーテンの詩にあるような、死と一つになった陰気な美ではなく、逆に生命に溢れ、心を歓喜へと高めていく美だった。
 地上の生の素晴らしさを、それまで全く知らなかった訳ではない。死にあこがれた信州でも、朝日に染まるアルプスや、高原の風にそよぐ白樺や、霧の中に聞こえるカッコウの声など、好きでたまらないものがいくらでもあった。しかし、それは一瞬心の中を過ぎてゆく映像で、次の瞬間には、もう不安や焦燥や不満が入れ替わって心を満たしていた。いつも晴れやかというわけにはゆかなかった。
 しかし、死をくぐりぬけ、快復の喜びを噛みしめていたその瞬間に見た樟の若葉は、そういうものとは違っていた。それは、この世の風景のもっと奥にある、すべての生命の原風景といったものに見えたのだ。
 子供の頃『心に太陽を持て』という詩を読んだことがある。雨が降っても、風が吹いても、雲の上には常に太陽が輝いている、そのように人生の暗い日、不運な日にも、心に太陽を持てば、そうしたものに打ち勝つことができる―そんな詩だった。
 ちょうど樟の新緑は、心の太陽のように、その後、生命感の源泉となった。」



 病から快復した辻さんがみた樟の大木は、辻さんにとって、命の象徴として心いっぱいに入ってきたのでしょう。



 樟のように大木ではありませんが、イエス・キリストは、野に咲いている草花を見て、神の愛と神の人間に対する配慮を思い至るように仰せになりました。



 マタイによる福音書6章28節〜30節です。



 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」



 雑草として人に省みられない草花に、配慮を装ってくださる神は、まして、人間を省みて下さらないはずはありません。



 神は、私たちの生活全てを省み、大切な命を守り、導いてくださるのです。



 数年前、私は、カテーテルの手術を受けました。胸元が痛くなり、小さな病院でしたが、検査をして貰いました。しかし、何が原因で痛むのか、検査しても良く分かりませんでした。痛みが激しくなり、心電図で調べましたら、心筋梗塞の症状が出ていました。間もなくして、大きな都立の病院に救急車で運ばれたのです。そして、手術を受け、無事助かったのです。看護士さんに「危ないところでしたね」と言われ、振り返ってみると、危うく助かったのだと実感したのです。



 手術という中で、一つの聖句を思い出したのです。新約聖書、ヘブル人への手紙4章14節から16節の言葉です。



 「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのだから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか、この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、あわれみを受け、恵みにあずかって時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか。」



 私は、この聖句を何度も病院で読みながら祈りました。



 今まで、この言葉の意味が体験的に実感できなかったのです。医師の先生方の、適切な判断と処理によって危うく助かったことで、その背後に、神様が聖書の約束を果たしておられるのだと実感しました。



 イエス・キリストは、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と言いました。それは、価値のない雑草に寄せられた、神のご配慮を見るように言われたのです。



 普段私たちは野の花の中に、神の不思議な心遣いと力を見ることはめったに無いかもしれません。忙しい生活に追われて、路地に咲いている草花に、心通わせるゆとりも無いかもしれません。



 しかし、生活の危機に直面したり、心が落ち込んだり、突然、病に襲われたりして、目が開かれる時があるのです。



 その時、今まで見過ごしていた、自然界の営みが心の世界に飛び込んで来るのです。



 人間の足で踏みにじられ、焼かれてしまう、野の花の中に、その背後で語りかける、神の愛を見るのです。

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