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十字架のキリストを伝える・・・(2)十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かである

 コリント第1の手紙1章18節を見ると、「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かである」とあります。


 また、21節には、「宣教の愚かさ」とあります。


 25節には、「神の愚かさ」、「神の弱さ」とでています。


 これらの言葉が何を意味するのでしょうか。


 そこにパウロと当時の人たち(学者)と違う新しい視点から解かれています。


 十字架のことばとは、23節にあるように、十字架につけられたキリストのことです。


 十字架につけられたキリストは、信じない人にとっては愚かであるというのです。


 愚かに思っている人たちは、具体的に誰かというと、信じないユダヤ人、異邦人全てとなります。


 23節の後半にでているユダヤ人には、つまづかせるもの、異邦人には愚かなものというのです。


 しかし、信じる私たちには神の力、救いとなるのです。


 どうしてイエスが十字架にかかった事は、ユダヤ人につまづかせるものなのでしょう。また、ギリシャ人にとって愚かなものなのでしょう。


 有名な神学者で牧師の先生が、若い頃、金沢で伝道していました。その教会の古い歳をとった信徒の方から、昔その地方の人々は極端にヤソを嫌い、教会の前を通る時は、鼻をつまんで駆け抜け、あるいはこんな歌を歌ってからかったそうです。「ヤソ教徒の弱虫、はりつけ拝んで涙を流す」と。


 “つまづきだ”“愚かだ”とパウロの時代は考えられていました。特にユダヤ人はつまづいていました。その原因はユダヤ人はしるしを請ったからです。(22節)


 メシヤの奇跡を求めていたのです。それがつまづきのもととなりました。


 エレン・ホワイトは「キリストの実物教訓」11頁から12頁の中で、


 「キリストの務めは、彼の時代の人々に理解されなかった。彼のこられた様子が、彼らの期待にそわなかったのである。
彼らの求めたのは奇跡であった。救い主のかわりに、奇跡を求めた。彼らにはキリストの福音はつまづきの石であった。彼らは、メシヤが偉大なわざを成し遂げて、ご自分がメシヤであることを証拠だて、地上の国々を打ち破ってメシヤ王国を建設するものと期待した。」とあります。


 バークレーは次のように言っています。


 「ユダヤ人には、十字架上で、その生涯を閉じた人間が、神に選ばれた者であるなどとは到底信じられぬことであった。彼らは、自分たちの律法をさし示した。そこには、はっきりこう書かれていた。
 『木にかけられた者は、神にのろわれた者である』(申命記21章23節)。
 ユダヤ人から見れば、十字架の事実は、イエスが神の子であることを証明するどころか、神の子でないことを決定的に証明するものであった。
 不思議に思われるかもしれないが、ユダヤ人はイザヤ書53章を目の前にしながら、苦難のメシアといったものを、夢想だにすることができなかったのだ。
 十字架はユダヤ人にとって、イエスを信じる信仰への越えがたい障害であったし、今もそうなのである。
 ユダヤ人はしるしを求めた。神の黄金時代が到来したとき、彼らは驚天動地の出来事を待望した。
 ところが、イエスの中に彼らが見たものは、柔和で心へりくだった者、大向こうをうならせるようなことを故意にさける者、人々の間にあって仕える者、そして十字架に生涯を閉じる者であった。このような者を神に選ばれた者と考えるのは、ユダヤ人にとっては到底不可能なことだったのである。」


 ※次回に続く