幸せを約束する聖書の言葉

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます

福音を恥としない(2)・・・愚かにみえる

 ローマ人への手紙1章15節には、


 「そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。」(口語訳)


 新共同訳では、「是非…福音を告げ知らせたいのです」とパウロは言っています。


 また、ある人は、この同じ個所を「心が熱する」と訳しています。心が熱してきて、どうにかして、福音を伝えたいと、パウロは言うのです。


 パウロは、福音によって救われる、即ち、イエス・キリストに救われるということが、どういうことなのか深く分かっていたのでしょう。


 私はパウロのローマ人への手紙を読み始めたのは、自らの信仰と働きを省みる為でした。パウロのローマにいる人たちに対する熱い思いを考え、その同じ熱い思いをもちたいと思ったからです。


 ローマ人への手紙1章16節を見ると、


 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも信じる者すべてに、救いをもたらす神の力だからです」
とあります。


 突然、パウロは、「福音を恥としない」と言います。「福音を誇る」とは言っていません。


 福音を語ることに、パウロは恥が伴ったのでしょうか。


 私は、イエス・キリストを信じている、牧師であるということを告げなければならないことが何度もありました。その結果、周りの人の雰囲気が変わるのを見ると複雑な気持を持ちました。


 パウロは、ローマ帝国の首都に住んでいる人から見れば、ローマの植民地、ユダヤの一地方の出身者に過ぎない田舎者が、この大きな都会で、本当に伝道できるのかどうかと見られて、人間として、恥ずかしい思いをしたので、それを福音のため恥じないと言っているのでしょうか。


 パウロは、クリスチャンになる前は、迫害者として、恐れられていました。


 彼自身、罪人の頭と自分自身を呼んでいます。そのような過去の罪の故に恥じる心があったのでしょうか。


 パウロは弱さをもっていました。


 人々をつまづかせるような病、また人間的に見て優れた容姿をもっていたとは記されていません。


 あるところでは、パウロの話はつまらないとも言われています。


 そのような人間的な弱さを福音の故に恥としないと言ったのでしょうか。


 コリント人への第一の手紙1章18節を見ると「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが…」とパウロは述べています。


 21節には、「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」


 「宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おう」と考えたのです。


 信じない人々、知らない人々からすると、十字架の救いは愚かに見えるというのです。本質的に、イエス・キリストを恥じるような、人間的に見て愚かさがあるというのです。
 

※次回に続く