幸せを約束する聖書の言葉

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます

再臨のイエス・キリストを迎える(3)・・「目をさまして慎んでいよう」

 イエス・キリストの再臨の日時を知らず、突如としてイエス・キリストがおいでになる。そしてそれは逃れることのできない確実なものであるならどうすればよいのでしょう。



 パウロは4節から8節の中で、「目をさまして、謹んでいよう」と訴えています。



 「あなたがたが、放縦や、泥酔や世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけない時、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい」(ルカによる福音書21章34節)



 「慎んでいよう」という言葉を、別の訳では、「わたしたちは正気でいよう」となっています。



 「慎んで」というのを「正気で」と訳しています。



 一つには、「慎んでいる」、「正気である」というのは、酒に酔っていない状態をあらわしています。



 実際に酒を飲まないことをあらわしていますが、世の風潮に流されない、世の流れに染まないことをあらわしているとも思われます。


 
 内村鑑三という方をご存知でしょうか。



 日本の偉大なキリスト教思想家です。有名な人です。多くの人が彼の影響を受けています。



 その内村鑑三が、大正7年(1918年)から一年半、神田のキリスト教青年会館において、講演会を中心に、再臨運動を展開しました。



 講演会には、毎回1000人を超える聴衆が集まりました。



 内村鑑三にとって、再臨信仰は、彼の思想の、その生涯の頂点であると言われています。



 そして、「再臨とは、まさしく、キリストが「肉体」として、文字通りこの地上に再臨する。ことである」として、内村は信じていたのです。



 彼は著書の中で、次のように述べています。



 「キリスト再臨の信仰は、余の無教会主義を徹底せしむ。此世に勢力を得し、教会は総てキリストの再臨を排斥す。羅馬天主教会を始めとして、英国聖公会、メソヂスト教会、バプテスト教会、組合教会、長老日基教会、悉く此信仰を蔑視する。而して其理由は明白である。再臨の信仰は現世的教会の根底を断絶る(たちきる)からである。」



 内村鑑三は、再臨の信仰は現世的教会の根底を断絶る(たちきる)と言っています。



 再臨信仰を持つということは、この世の精神を断絶るものでなければいけないと言うのです。



 パウロは、「慎んでいよう」「正気でいよう」と言ったのは、そのことでした。



 「慎んでいよう」「正気でいよう」という二つ目の意味は、主の来臨を迎える態度として、熱狂的に興奮するのではなく、むしろ落ち着き、正気になって、はっきりした頭であることがこの言葉によって示されています。



 内村鑑三は、再臨を熱心に説くのを、ある時から止めてしまいます。



 その理由は、再臨運動が一つの社会現象となり、再臨の熱狂的信者が出てきて、自分をメシヤと自称する人が出てきたからでした。



 エレン・ホワイトは、「テサロニケの信者たちは、狂信的な考えや、教理を持ち込んでくる人々に、非常に悩まされた」と述べています。(患難から栄光へ283頁)



 何故、熱狂的な信者が出るのか、内村は晩年になって、次のように述べています。



 「私は長らくキリストの再臨を説かなかった。それは再臨を忘れたからではない。もちろん信仰を棄てたからではない。我国の信仰状態において私が、先年為した以上にこれを説く必要を感じなかったからである。更に、又其危険を感じたからである。再臨は聖書の中心真理と言わんよりは、寧ろ其の最終真理と称すべきである。黙るに、その壮大壮美なる教義であるが故に人は始めて、之に接して其の肝を挫がれ、判断をみだされやすくある。世にいわゆる「再臨狂」の多きは之がためである。私はキリストの再臨を説いて多くの悲しむべき再臨狂の実例に接した。」



 ですから、パウロは落ち着いて生活するよう諭したのでした。



 「慎んでいよう」、「正気でいよう」、それは、世の精神に引きずられない生き方です。落ち着いて信仰に生き、生活に勤勉に働くということです。



※次回に続く